2024年02月23日

寂しい時に心を満たすものは何か 孤高のイエスを満腹にさせたのは・・・ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、
かわくことがないばかりか、
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、
永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。

わたしには、あなたがたの知らない食物がある。
わたしの食物というのは、
わたしをつかわされたかたのみこころを行い、
そのみわざをなし遂げることである。


(ヨハネによる福音書 4章より)



李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1977年のみ言「イエス様の内的生活」より
「心霊の糧食(食物のこと)」です。

心霊の糧食

皆さん、今朝、敬礼式をしましたね。
敬礼式というのは、お父様が
敬礼を受けようと思って敬礼させるのではありません。

皆さんが父の名前で互いに仕えることのできる
家庭となり、互いに侍られる人になるようにと
目的をもって敬礼させるのです。

ところで人々とは和睦できないでいながら
早朝から起きて沐浴し、白い服を着、
頭をペコペコするならば、神が
「そうか、お前は実に根気よく寝床から飛び起き、
私を慕うからけなげだなあ」と言われると思いますか? 

むしろ「ああ、心配だ。
私を見て良いと思っても、
お前を見て良いという人がいないから、
お前を見るたびに心配だ、心配だ」と、
このように言われるのです。


多分、嫁に行けなかった娘をもった
父母の心配と同じはずです。

年齢が満ちた娘が父母の前に食膳をかかげて
入ってくるならば、父母の心は喜ばしいというより
「この娘をだれにあげようか」という心配が先立ちます。

三十歳近くなった娘をもった父母の心はどうでしょうか。

同じく今日、私たちが神の前に敬礼をしながら
父の名前で互いに情的に通じる家庭をつくって
おくことができないならば、天も心配なさるのです。

 
侍るということは、抽象的なことではなく、
自分の生活圏内で互いに侍って授受することを言います。

侍るということは、「私の事情が君の事情だ」と、
このように信仰的に授受することを言います。
このように授受することができなければ寂しいのです。

皆さんがこのみ旨を知りながらも、
夫婦間にみ旨を中心として授受することが
できないときは寂しくなります。

困難がある、寂しいというときが
まさしくその時です。

反対に私たちがみ言を証し、相手側が
み言を喜ぶならばうれしいのです。
腹が膨れるというのです。

 
サマリヤの女*が「私たちが
どのようにするならばキリストに会うでしょうか。
メシヤにどのように会うことができるでしょうか」
と言いますから、「私がそうです」と言われながら、
ご自身がメシヤであることを明らかになさいました。

イエス様がこの地上に来られて
ご自身がメシヤであることを直接話した相手は、
サマリヤの女しかいませんでした。
弟子たちにも話すことができませんでした。

ところがこの女には胸の内にこもっていた言葉を
語ることができ、いかばかり心温まったことでしょうか。

そうしているところに弟子たちが来て、
「ラビよ、お召し上がりください」と言いますから
イエス様は「私には、お前たちが
知ることのできない糧食がある」と言われたのです。

結局は、私たちの腹が膨れるのはなぜかと言えば、
私の心を分かってくれ、私の話を聞いてくれ、
私のことをひどく心配してくれる人がいるからです。

それが、私の霊人体の糧食になるのです。

諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教 
1977年10月2日 韓国中央修練所

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」

*サマリヤの女:解説のために
下にヨハネによる福音書 4章の
サマリヤの部分を添付します。

再編集 文責:ten1ko2


イエス様は弟子たちと授受しながらも
本当の意味で心が満たされなかったのだと思います。

サマリヤの女は、イエス様を受け入れました。
イスラエル民族(ユダヤ人)が蔑視していたサマリヤ人(びと)でしたが
その一人の女性の、メシヤを求める純粋な心に
「腹が膨れた」のでした。

サマリヤの女とは、唯一、イエス様が
自らを救世主であると告げることができた
人だったとのこと。
どれだけ深い交流ができたのでしょうか。

イエス様から「永遠の命にいたる水」を受け、
さらに、この人はキリストであると、
多くの人に証していきました。

イエス様は、予定を変更して2日サマリヤに滞在して
み言を語り、サマリヤは大復興しました。
つまり、この女性が伝道したことになります。

私たちも外的に見れば、何の価値も取柄もない者たちです。
だからこそ、サマリヤの女のように、
真の父母様を慕う、純粋な心情を持ち、
父母様に侍っていきたい。。。

つまり、その願いであるみ旨をなすこと、
私たちの家庭と、世界を神様につなげ、
天と真の父母様が、喜んでくださり、
満腹になってくださるように、努めたいと思います。




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ヨハネによる福音書 4章(口語訳)

5そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。この町は、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにあったが、 6そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。 7ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、「水を飲ませて下さい」と言われた。 8弟子たちは食物を買いに町に行っていたのである。 9すると、サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。 10イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。 11女はイエスに言った、「主よ、あなたは、くむ物をお持ちにならず、その上、井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れるのですか。 12あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが」。 13イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 14しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。 15女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。 16イエスは女に言われた、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」。 17女は答えて言った、「わたしには夫はありません」。イエスは女に言われた、「夫がないと言ったのは、もっともだ。 18あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである」。 19女はイエスに言った、「主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。 20わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。 21イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 22あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。 23しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。 24神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。 25女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。 26イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

27そのとき、弟子たちが帰って来て、イエスがひとりの女と話しておられるのを見て不思議に思ったが、しかし、「何を求めておられますか」とも、「何を彼女と話しておられるのですか」とも、尋ねる者はひとりもなかった。 28この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、 29「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。 30人々は町を出て、ぞくぞくとイエスのところへ行った。 31その間に弟子たちはイエスに、「先生、召しあがってください」とすすめた。 32ところが、イエスは言われた、「わたしには、あなたがたの知らない食物がある」。 33そこで、弟子たちが互に言った、「だれかが、何か食べるものを持ってきてさしあげたのであろうか」。 34イエスは彼らに言われた、「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行い、そのみわざをなし遂げることである。 35あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。 36刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。 37そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。 38わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。

39さて、この町からきた多くのサマリヤ人は、「この人は、わたしのしたことを何もかも言いあてた」とあかしした女の言葉によって、イエスを信じた。 40そこで、サマリヤ人たちはイエスのもとにきて、自分たちのところに滞在していただきたいと願ったので、イエスはそこにふつか滞在された。 41そしてなお多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 42彼らは女に言った、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。自分自身で親しく聞いて、この人こそまことに世の救主であることが、わかったからである」。



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posted by ten1ko2 at 13:01 | Comment(3) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする