2024年02月26日

アベルを無視すると、実績が出てもサタンに奪われる?! 《喜びと幸せの生活伝道》

伝道が実るための必須事項・・・一つになる *劉孝元先生のエピソード



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篠崎幸郎先生の「喜びと幸せの生活伝道」より、
一押しの『神様が取ることのできる条件』です。


  神様が取ることのできる条件

責任者(アベル)と食口(カイン)の一体化を阻む障害として、
例えば、アベルの堕落性、互いの性格の違い、
そして意見の相違などがあります。

互いにみ旨を愛し一生懸命取り組んでいるのに、
責任者と食口の意見が合わないということが起きるのです。
この意見の相違という問題について考えてみます。


韓国の草創期の、劉孝元先生と
食口たちとのエピソードを紹介します。

あることを進める際、AとBのどちらの方法が良いか、
劉孝元先生と食口が相談しました。
食口たちはどう考えてもBが良いと思って
劉孝元先生と多くの意見交換をしましたが、
最終的に、劉孝元先生はAで押し切ったそうです。

そして、その結果は良くありませんでした。
皆は「だから言ったじゃないか」
と言って劉孝元先生を批判しました。

その話が真のお父様まで届いたそうです。
ところが、お父様は
「それでも劉協会長が正しい」
とおっしゃったというのです。


なぜでしょうか?
AよりもBのほうがいいのに、中心者が認めない。

だから自分でやって中心者に認めさせようという発想は、
たとえ七の実績が上がっても、
サタンが持っていくというのです。

三の実績しかなかったとしても、
神様が主管されることをすべきだというのです。

原理的な条件があれば、神様が
さらに大きな恵みを与えてもサタンは讒訴できません。
神様がお取りになれる原理的な条件があれば、
神様はその条件をもって摂理されるでしょう。

重要なことは、サタンが侵入することの
できない基台をいかに立てるかなのです。


堕落の血統を受け継いだ私たちにとって、
「堕落性を脱ぐ」ことは簡単ではありません。

アベル・カインの関係を通して、
堕落性を脱ぐための闘いも起こります。
特に、伝道においてそれが起こりやすいのです。

闘いが生じることは悪いことではありません、
それは歴史的な蕩減を懸けた闘いなので、
すべてに意味があります。

伝道においては、アベルとカインが
その立場に置かれたことを感謝し、
互いの立場を尊重しながら一つになったときに、
神様の愛が流れ、新しい生命として霊の子が誕生するのです。

アベルとカインの愛の秩序が立ったとき、
伝道は実るようになっているのです。

篠崎幸郎著「喜びと幸せの生活伝道」より
再編集 文責:ten1ko2


このみ言を初めて読んだとき、
結構、衝撃を受けました。

劉孝元先生だけでなく、
お父様ご自身も、実績が少ない、
「劉孝元先生が正しい」と言われたのです。

これは、お父様が劉孝元先生を好きだから、
という理由ではなく、
アベル・カインの原則に応じたものだからこそ、
語られたみ言だったと思います。

やはり、供え物は、アベルを通じて、
神様が取られるものであるし、
一つになることが、目的であることを
教えていただきました。

また、天が立てた位置に、神様が働くので、
人事、というものは、決して人間的なものでないし、
中心の決め事も、天の計らいの中で、
行われていることを理解する必要があると思います。

ただ、アベル=絶対的存在、ではありません。
日本のアベル・カイン観は間違っている、といつも言われてきました。

日本は、武士道のような、主君に絶対服従、
という精神が信仰のようになってきました。
主人と僕の位置ではないのです。
心情を中心とした関係である。。。
そのことが前提であることを忘れてはならないと思うのです。



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