2024年03月31日

(証し)私の運勢を変えた、初めて出したお父様への手紙 《周藤先生》



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昨年末に亡くなられた周藤先生の
若き頃の証しを紹介します。

劉孝元先生が病気になられた時、
お父様に手紙を書くことにしたのですが──


祝福を受けてから少したったある日、
私たちに非常にショッキングなニュースが入りました。

それは「劉協会長が『ガン』になったので
祈祷してください」ということでした。

劉協会長は韓国では原理を語る立場でありましたし、
私も日本で似たように立場なので、
個人的にはあまり深く話し会った
というのではないにもかかわらず、
気が付いてみたら劉協会長と同じような世界が
自分の中にあることを知りました。

したがって祈りも本当に
真剣にならざるを得ませんでした。

その祈りの中で、先生が
ある時にフッと語られた言葉が浮かんできました。

それは“たとえこの世を失ったとしても
劉協会長は失いたくない”
という言葉でした。

私はなお祈り続けると、今度は
“もし私が代われたら……”
という思いがどんどん強くなってきて、
どうしようもなくなってきました。

それからというもの、私は
その問題を中心として非常に闘いました。

とうとう私は心の底から喜んで
身代わりになろうと決断しました。
そして心の中で思っているだけでなく、
実体化しなければならないということに気が付いて、
先生に手紙を書こうとしました。

私は先生が認めればそれは
そのごとくなることを知っていたのです。

ですから山を見ても川を見ても、
“ああこれでこの世の見納めだ”と思い、
兄弟に会っても、ああこれで終わりかもしれないという、
何とも言えない気持ちでした。

しかし、自分の責任分担のために別の意識になると、
またその本来の意識にもどすまでに、
ものすごい努力をしなければなりませんでした。

それが一、二週間続いて、
まだ手紙を書き終わらないうちに、
劉先生が亡くなられたという知らせが来たのです。

私は“遅すぎた!”と思い
たまらない悔いになってしまいました。

そしてどうしていいかわからなくなり、
どこにも行き場がなく、誰にも打ち明けられないので、
とうとう家内に相談することにしました。
彼女は、私と一緒に泣いてくれました。

後である人から聞いたのですが、
彼女は「その時初めて
私を愛せるようになった」ということでした。

私の中に天を思う気持ちがあるのを見て、
それを愛せるようになったというのです。
彼女は普通の人間的な関係では、
そんなに反応する人ではありませんでした。

私は足らなかったことを詫びるために、
先生に手紙を書きました。

天が必要であるならば、いつでも捧げ物になりたい
という気持ちを書いたのです。

それから不思議に運勢が変わったらしく、
どんどん先生の所にも呼ばれるようになりました。

「証言」より


皆様もこの証しを通して感じると思いますが、
周藤先生は、本当に純粋だなぁ、と思います。

お父様が愛してやまない、劉孝元先生の病気が
治るなら、自分が身代わりになってもいい。
そんな思いをお父様に手紙を書こうとしたのでした。

その手紙は御心なのか間に合いませんでしたが、
そして、亡くなったあとに、さらに
いつでも捧げ物になりたい
とお父様に手紙を書きました。

それから運勢が変わり、お父様の許に呼ばれるようになった
ということですが、生命を奉げたい
というような忠孝の思いが、通じたのでしょう。
命を捨てるものは得ると言いますが…。

神日本天心苑の朱鎭台(チュジンテ)苑長も
まさに周藤先生と同じように、
日本のためならイサクと同じく、殉教も厭わない・・・
それほどの決意をもって歩まれています。

先日の天心苑徹夜精誠でも、
その思いが伝わるような懇切な祈りを捧げていかれました。

霊界におられるお父様もどれほど、
感銘を受けておられるでしょうか。。。

実績を捧げることも貴いことかも知れませんが、
それ以上に純粋な心情を捧げることが
もっと貴いことであることを改めて感じるのです。


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2024年03月30日

ある日、愛車と会話をしていると・・・神の愛を感じました 《自己牧会プログラム》



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自己牧会プログラム。今回は、
「愛車から『ありがとう』の声」です。

(男性 60代)

「自己牧会プログラム」の「人と万物に感謝する」ワークに、
次のような解説があります。

「木々や花や土や建物や、青空や太陽に対して
『ありがとう』と感謝していくうちに、
 それらを与えてくださった神様に対して、
 心の底から『ありがとうございます』
 という心が湧いてくるのです。

 万物は一つ一つが神様の愛の結晶です。
 一つ一つから、神様の愛を感じ取っていくのです。

『きれいだね』『素晴らしいね』『ありがとう』と、
 万物に感謝すれば、美(答え)が返ってくるのです。
 それをイメージしてみましょう」
(207ページ、要約)

このワークを実践する中で、万物と対話する
という体験をするようになりました。

その中の一つを紹介します。


自家用車はわが家の大切な一員で、
「流星号」と名付けてかわいがっています。
ただ時々、洗車を億劫に思うこともあります。

ある時、よく頑張ってくれている愛車が
(いと)おしくなり、感謝の気持ちを込めて、
「流星君、洗車に行こうか」と声を掛けてみました。

すると「パパ、ありがとう」という声を感じたのです。
それで“2人”でガソリンスタンドに出掛けました。

洗車しながら、「気持ちいいかい?」と聞いてみると、
「うん、パパ、気持ちいい」と返ってきたので、
こちらもうれしくなりました。

こういう楽しい会話をしながら
車内の掃除まで終えると、既に日が暮れていました。

ふと空を見上げると、美しい月が出ていました。
真のお父様が「頑張っているね」と
にっこりされている感覚がして、心がとてもワクワクしました。

車も月も万物ですが、そこには明らかに神様の愛が宿っており、
こちらが心を開けば、その愛を
キャッチすることができるのだと思いました。

私の心の中にいる神様 15
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


原理講論には、
「人間を中心とする被造世界が存在する目的は、
神を喜ばせることであった」とあります。

車も人間が造ったものではありますが、
愛する心情をもって接していけば、
主人に美を返す存在になるんですね。

お父様は牢獄に入っている時、
「南京虫やノミを見る瞬間、ふと悟る啓示がありますが、
それを逃してはなりません」
と、自叙伝に書かれているように、
万物を通して、神様の愛を感じていかれました。

自分の車を『愛車』呼びますが、
さらに愛をもって接していきたいと思いました。




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2024年03月29日

家庭連合は正しいのか、本物なのか、試してみなさい 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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それでは私を試してみなさい。
私の言うことを試してみなさい。
善い木はその実を見て分かるのです。
実が正しいならば私が善なる人ではないか

李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1979年のみ言「私は善なる牧者」、第2回目です。

「私は善なる牧者」と語られた意味

私たちは、神の願いのゆえに神の前に必要存在である
ということを忘れてはなりません。

私たちはどのような環境に身を置くとしても、
私たちの関心と心配は、常に、神と私の周囲の環境の
事情のために生きようとする姿勢をもつことにあり、
このような人が善をもった人なのです。

私たちは善をもつことができないという言葉は、
自分を中心とした考えでいっぱいだということです。
そのような人は、善であり得ません。

もちろん、自分の気掛かりでいっぱいの人も
善をもつことができない人です。
しかし、自分が身を置いている環境で、
より全体を心配する心をもった人は善をもった人なのです。

 
イエス様が、「私は善なる牧者だ。
私は善い」と語られたその善の内容は
どのようなものでしょうか? 

それは、イエス様が、全人類の気掛かりと
心配のためにおられ、新しい生命をお与えになり、
また生命を豊かにするためにおられるというのです。

生命が豊かであるということは、
全体に望みを与え、喜びを与え、全体のために、
すべての人に善なる意欲を復活させてくれるというのです。

またイエス様は、あなた方は私を試してみなさい。
あなたたちが私の言うことを聞いて従順になってみなさい。

私がそのような人なのか、そうでないのかを
試してみなさいと語られました。


今日、統一教会に入ってきた私たちも
先生を試してみましょう。

先生のみ言どおりに生きるならば生命に力を得、
先生のみ言に従順になれば、他人の心配を引き受けて、
ためにしてあげるようになり、先生のみ言を
私がそのとおりに受け入れてみると、
この日まで私がもつことができなかった善の感情が、
私からにじみ出るということが
本当かどうかを試してみましょう。

皆さんは、既にそのようなことを体験しました。
それゆえに私たちの先生は
「真」であられることが証明されるのです。

悲しみと苦痛に陥っているとき、
先生のことを考えてごらんなさい。
その悲しみに勝つことのできる力が
生じるのかどうかを試してみてください。

果たして私たちの先生が
生命を下さるお方なのか試してみるのです。

真なる方をそのとおりに考え、
私の考えを真なるようにしようとするならば、
思いがけない力が生じます。

私たちの先生が「真」であられることは、
私たちの信仰の体験を通してよく知ることができるのです。


イエス様もユダヤ民族が不信するときに、
自ら善なる牧者であると証しなさいました。

その当時、すべての指導者たちは、
イエス様を「僭越だ」と言いました。

「ああ、あの人はこのような歳なのに、
あのようなことを言うのか」と非難しました。

「それでは私を試してみなさい。
私の言うことを試してみなさい。
善い木はその実を見て分かるのです。
実が正しいならば私が善なる人ではないか」
と語られ、イエス様はもうまいな人間たちを切なく思われました。

1979年9月9日 韓国本部教会

信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏  
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰

U 復帰摂理の恨
「私は善なる牧者」
再編集 文責:ten1ko2


毎晩、開催されている天心苑徹夜精誠。
李基誠苑長が必ずみ言を語られます。

ちょうど、昨日語られたみ言の中に、
「成功の秘法とは何でしょうか。
お父様はたった一言、『侍ることである』
と語られました」
とても印象的でした。

イエス様も「善なる牧会者」と語られながら、
最初に信徒たちを愛し、侍っていかれました。

愛する対象がいること、そして最初に侍ること、
その道を行くことが貴いことである、
それを実践することを天が願われているのだ、
そのように思うのです。




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36父が聖別して、世につかわされた者が、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『あなたは神を汚す者だ』と言うのか。 37もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。 38しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」。

ヨハネによる福音書 10



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