2024年03月25日

磯野波平さん(仮名)の証し?! お婿さんの食べ方に葛藤しています 《自己牧会プログラム》



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「自己牧会プログラム」の体験談、
今日は、婿のマスオさんに複雑な気持ちを抱える
磯野波平さん(仮名)の証しです(?!)。



嫌な気持ちを抱いたときの魔法の言葉
(男性、60代)

娘夫婦と一緒に住むようになり、1年近くがたちました。

婿(むこ)さんは身長が180センチ以上あり、
とにかくよく食べるのですが、その食べ方が変わっています。

最初に、ご飯の上におかずを全部載せてしまい、
そこから一気にかき込むのです。
初めて見た時は、啞然(あぜん)としました。

また、みんなで箸をのばして食べるように準備した漬け物なども、
お構いなしに全部食べてしまいます。

さすがにその時には、
「おいおい、4人家族(私たち夫婦と娘夫婦)なんだから、
4で割れよ」と言いそうになりました。

 
婿さんは4人兄弟で、兄弟たちも皆、180センチ以上の立派な体格です。

聞けば、その家庭には「3秒ルール」というのがあって、
食事の時に3秒、誰も箸を付けない皿があったら、
それは自分のものというルールなのだそうです。

そういう中でもまれて育ったせいか、
まずは自分の食べる物を確保するという習慣がついてしまったようです。

そういう背景は分かっても、最初のうちは葛藤の連続で、
文句の一つも言いたくなることがよくありました。

 
そんなとき助けてくれるのが、「心の目で見る」ワークです。

人に対して嫌な気持ちを抱いたときの魔法の言葉として、
「真の愛を中心として正しく見させてください」
と唱えるのです。

そうすると自分の良心にアクセスすることができ、
本当は誰もけんかなんかしたくないし、
互いに一つになりたいと思っていることに気付くのです。

すると、相手を責める気持ちはすーっとどこかに消えてしまいます。

 
ある時、あまりにもカチンとくることがあったので、
「心の目で見る」ワークをしながら、良心に
「どうしたらいいでしょうか」と尋ねてみました。

そうしたら良心の答えはこうでした。

「娘をもらってくれただけで、ありがたいじゃないか」

なるほど、そうだと思いました。

うちの娘は、大学で物理学を専攻したバリバリのリケジョ(理科系女子)です。
物の言い方も理詰めでビシッとしています。
親からすれば目に入れても痛くない、かわいい娘ですが、
男性から見ると、いわゆる“かわいいタイプ”ではないのです。

そんな娘をもらってくれたのですから、
こんなありがたい婿さんはいないのです。

 
娘は最近、そんな婿さんが「慕わしい」と言っています。
そんなことは、思っても口にしないタイプだったので、驚きました。
婿さんが娘を変えてくれたのです。

最近は婿さんに対し、「よく食うな」から
「食べてもらえるのがありがたい」と思えるようになりました。

たまに仕事で食事の場にいないと、寂しいとさえ思ってしまいます。
こんな気持ちになれたことが感謝です。

Blessed Lifeより
再編集 文責:ten1ko2


自分の基準で物事を見ると、
裁きとか、要求の思いになりますね。

この「マスオさん」の場合は、
証しをしているお義父さんだけでなく、
客観的に見ても「ちょっとどうかな」
そのように思われても仕方がないかもしれません。

しかし、お義父さんは、
良心に尋ねてみたのです。

私たちも周囲の人たちに「?」
と思うことに対しては、
すぐに反応することなく、
良心の声に耳を傾ける、という
良い習慣性をつけたいと思うのです。





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posted by ten1ko2 at 08:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 自己牧会プログラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年03月24日

愛せない人を愛する…ってムリなんじゃない?! 戦争と不和がなくなる方法 *ある説教より*



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日曜日は、家庭連合でも礼拝を捧げています。

先週、「愛せない人を愛する」証し(体験談)を
紹介しましたが、今日は、
同じ説教の前半部分をどうぞ。

説教題は「敵を愛する理由と方法」です。

 訓読
「戦争の起こる動機は、
 男、女、私、君がいるためだ。

 夫婦、兄弟に戦いがある。
 しかし父母の心には敵がない。

 神様は父母である。
 ゆえに神様の本質は愛である」


(『御旨の道』p.86「復帰・復帰の心情」)
 
敵を愛するという話で思い起こすのが、マタイ福音書5章43節にある

「『隣り人を愛し、敵を憎めと』言われていたことは、
 あなたがたの聞いているところである。
 しかし、わたしはあなたがたに言う。
 敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである」


というイエス様の言葉です。


私はこの聖書の句を初めて読んだ時、
「何と愚かなことだ!」と感じました。

ルカによる福音書6章29節には

「あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり、
 あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな」


ともあるのですから、狂っているとすら感じました。

この世の中でそんなふうに生きれば、
一体どんなひどいことになるでしょうか。
心のどこかでそうすべきだと思うところがあるとしても、
実践不可能であり、無理であるとすら感じないでしょうか?


なぜイエス様がそんなことを話したのだろうと、
考えさせられた時期があります。
そんな時に、イエス様が弟子たちを
宣教に送り出していく場面を読みました。

「わたしがあなたがたをつかわすのは、
羊をおおかみの中に送るようなものである」


とマタイ福音書10章16節にあります。
弟子たちは伝道に出かけ、どれほど迫害されていたのか、
そこから読み取ることができます。

ある弟子は、実の兄弟に反対され、親や子に反対され、
石を投げられ、唾をされました。

ひどい姿でイエスのもとに帰ってくる者もたくさんいたと思います。
そんなふうに帰ってくる弟子たちをご覧になった
イエス様は、どのような気持ちだったでしょうか。


マタイによる福音書の続きを読んでみると、

「天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、
太陽をのぼらせ、
正しい者にも正しくない者にも、
雨を降らして下さるからである。
あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、
なんの報いがあろうか」


とあります。

イエス様のいたイスラエルには砂漠がありますが、
ひとたび雨が降ると、たちまち花が咲き広がる所でもあります。
ですから、イスラエルの人々にとっては雨は恩恵なのです。

 
本当の親は子供に対して、良い子であろうと
悪い子であろうと、幸福を願います。

昔、NHKでアメリカの黒人家庭を取材した
ドキュメンタリーがありました。

車いすの母親とその2人の息子が中心でしたが、
長男はスラム街のような所で育ったので、
そこから抜け出していつか白人のように生きると決心し、
大学を出て白人の女性と結婚し、立派な暮らしをしています。

弟のほうはそんな兄に対して、
「兄は黒人のプライドを捨てた!」と言い、
黒人過激派運動に参加し、人を殺して懲役を受けていました。

長男が母に会いに行くと、いつも母は次男の話を長男にします。
「あの子は本当はいい子なんだ。
必ずすぐ出てくる」と言い、
暖炉の上にある次男がいつもかぶっていた赤い帽子を指して、
「出てきたら、あの帽子をかぶらせて抱きしめてあげるんだ!」
と涙ながらに語るのです。

長男は、そのことが不満でした。
「どうして成功した自分のことを喜んでくれないのか。
牢屋にいる次男ばかりを愛するのか!」と思っていたのですが、
その長男の息子が人を殺して牢屋に行くようになったのです。

長男は、自分の息子が牢屋に入ったとき、
母親の気持ちが本当にわかったのです。
親は不幸な子供ほど心が動くのです。


イエス様は、イスラエルに降る雨を見て、
神様の親の愛を感じたのではないでしょうか?

敵も、親である神様から見たら自分の子供であったのです。

では、敵を愛する理由は何でしょうか? 
聖書には、「天にいますあなたがたの父の
子となるためである」と書かれています。


授受作用を堕落の観点から考えると、
堕落は神様と人間の親子の関係が切れたことです。

本当の親である神様が私の親である
ということがわからなくなったのです。
親の心も、親がだれであるかもわからなくなりました。

親がいて、兄弟になることができます。
しかし、親がいなくなり、親の心がわからないので、
敵になってしまったのです。

では、神様との親子の関係を取り戻すには、
どうしたらよいのでしょうか? 

本来は兄弟姉妹である敵を愛することが、
神様との親子の関係を取り戻す道ということになります。

「敵を愛する理由と方法」
公式説教ブログより
再編集 文責:ten1ko2


万民を愛することができるようになれば、
怨讐関係がなくなり、
天国が実現できるようになるでしょう。

しかし、兄弟同士(人間同士)では、
どうしても争いあってしまいます。

誰もが真の神様(天の父母様)を知って、
実感しない限りは、本当の平和は訪れない。。。

だからこそ、そのことを真のお母様が
今、何よりも訴えておられるのだと思うのです。


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2024年03月23日

神様が自由に闊歩する天国、どこに座るかためらっている中間霊界 《李相軒先生の霊界メッセージ》



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久しぶりに、李相軒(イ・サンホン)先生の
霊界メッセージをご紹介します。

霊界は、大きく分けて、
3つの層に分かれているといいます。

今日は、「上流層(高級霊界圏)」と
「中流層(中間霊界圏)」に現れる神様ついてです。

階級別に現れる神様
上流層(高級霊界圏)

上流層の霊界圏では、神様の顕現が最も自由です。

あたかも神様が我が家のように安心して
闊歩(かっぽ)できる所と言えば、その表現は適切でしょうか。

上流層の霊界圏では、
神様の動きを容易に知ることができ、
神様の光彩の中で互いに意思伝達ができるため、
ここにいる人々は常に神様の温かい愛を
感じながら暮らすことができます。

したがって、ここは
神様の自由な活動舞台だといえます。
ここでは、神様はその姿を自由に表現できるのです。

例えば、一刻一刻の環境に応じて神様の姿は、
きらびやかな光彩として、華麗な色彩として、
美しい虹として、輝く星の光として、
あるいは広く静かな湖として、
時には大きく雄壮な火の玉として現れます。

このように、神様の姿は想像を絶するほど
無数に多く、正確に形容することはできません。

ここでの神様の姿は、実に様々です。

子供が親の前で思いきり自由に歌や踊りを披露するように、
神様は自らの姿をどこにおいても意のままに表現されます。

そのため、こちらで生活する人々は常にうれしいし、幸福です。

これが高級霊界圏の実情です。
ここは、神様の安らかな安息所であり、
神様の家であると表現できるでしょう。

(1999年11月26日)

中流層(中間霊界圏)

中間霊界をさらに細分すると、いくつかの段階に
分類できますが、ここでは一つにまとめて
中間霊界と表現しながら、そこでの
神様の姿を概観していこうと思います。

上流層の霊界において、神様は多様に
自らの姿を思う存分に現していましたが、
ここでは息子の家を訪ねても、
「どこに座ろうか、ここに座っても
かまわないだろうか」とためらいながら、
緊張を隠しえない姿でいらっしゃいます。


ここでの神様の姿は、あたかも光を
存分に放つことのできない、
闇の中で火花を散らすだけの鍛冶屋と同じです。

煙の中の明かりのように、雲に遮られた光のように、
神様は沈鬱(ちんうつ)
明かりの姿であちこちをさまよっていらっしゃるのです。

そうしているうちに完全に去ってしまったり、
再び明るい光で神様御自身の姿を現すこともあります。

その時の神様の姿は、あたかも朝日が昇るとき
四方から明るくなっていく光彩のように、
とても大きく光を発散します。


その明かりは、まるで自らの体温ですべてのものを暖め、
抱き締めようとする姿に例えることができます。

その明かりは、四方をぐるぐると回りながら、
ある一方を光で包み込んでいくのです。

ところが、それ以外の所はそれと同時に、
たちまち暗くなってしまうのです。

一方に光が集まると、他方には暗黒の雲が滝のように
押し寄せてきて、たちまちその周囲を覆い尽くして
暗闇に変えてしまうのです。

この時、ゆらゆらと遠くはるかに消えゆくその明かりを見て、
相軒は涙でいっぱいになり、
「神様! 神様……」と呼んでみましたが、
消えてしまいました。

そのような神様の姿があまりにも不憫(ふびん)だったからです。

 
そのような日が一日だけでなく、限りなく続くのです。

そこで神様は、御自分の子女たちを抱き締めてみたくて
胸を大きく広げて待っていらっしゃいます。

きょうはこちらで、あすはあちらで、そして中央で、
あるいは空中でと、神様は四方八方に
その姿を愛の光として現そうとされます。

しかし、四方には穴がたくさん空いていて、
神様がすべてを愛の中に抱こうとしても大変難しいのです。


このような神様の姿に接しながら
相軒は深く何度も考えてみました。

そして神様の願いをかなえてさしあげるために、
中間霊界においても小グループをつくって、
神様が完全に安息できる所を
つくらなければならないと決心しました。

かわいそうな神様、愛の神様、上流層の子女たちから
慰労を受けて安息なさればよいのに、
神様は子女たちが一人も漏れることなく、
みな一緒に神様の愛の揺籃(ようらん)で暮らせることを夢見ながら、
絶えることなく待ちに待っていらっしゃいます。

そのようなお方が、まさに私たちの親なる神様なのです。

このような神様の事情を知っている子女が
どれほどいるでしょうか。

中間霊界において神様の実存と姿を説明し
教育するには、多くの時間が必要とされます。

こちらにまだ神様のために果たすべき使命が
残っていることを思うと、地上にいらっしゃる
真の父母様に申し訳なくて恥ずかしさを禁じえません。

(1999年11月26日)

李相軒(1914〜1997)(光言社刊
『霊界の実相と地上生活』【霊界の様相編】より)
第二部 天上天下の救世主・真の父母
第一章 神様の実存
二 階級別に現れる神様
霊界の実相と地上生活(37)
上流層(高級霊界圏)/中流層(中間霊界圏)

Blessed Lifeより
再編集 文責:ten1ko2


地上の人生において、神様を知ること、
そして、神様の心情を感じていくこと、
そのことがどれほど貴いことかと感じます。

神様は私たち人類の親であり、父母である、
そのことを実感し、また証ししていくことを
改めて決意していく所存です。

昨日は、1000回目の天心苑徹夜精誠でした。
たった8名から出発したこの徹夜祈祷会。。。
ここまで発展したことを、神様はどれほど
喜ばれているかと感じます。

さらに多くの精誠を捧げていきたいと思うのです。




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posted by ten1ko2 at 11:23 | Comment(1) | TrackBack(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする