李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1979年のみ言「私は善なる牧者」、第1回目です。
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そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。ヨハネによる福音書第10章7、8節
きょう、この聖句を選んだのは、
「真の善」についてお話ししようと思ったからです。
ここでイエス様が「私は善なる牧者だ」と語られました。
「私は善である」と語られた意味は何でしょうか。
イエス様がこの地に来られた目的は、
すべての世の中の人たちが真の生命を得るようにし、
その生命が豊かになるようにすることなので、
「私は善なる牧者だ」と語られたのです。
☆
真の牧者と偽りの牧者
復帰摂理の過程で数多くの信仰の人物たちと
預言者たちが出てきましたが、その方たちは
神の摂理の中で召命を受け、その時代の人間たちを
神の前へ引導する使命を受けた立場でした。
けれども、自分自身が真の生命の主人に
なることができなかったので、
真の生命を与えることができませんでした。
それゆえに道徳的な人になることはできましたが、
真の生命を与えることができる
真の牧者になることはできなかったのです。
そして、その当時の教会指導者たちは、
自分を中心とした信仰をしながら、
自分の願いを中心として働き、
自分を中心とした観をもった人たちだったので、
イエス様は、彼らをどろぼうであり、
強盗であると語られました。
彼らは、人生がなぜあるのか、また、
どのような目的をもって生きなければならないか
というような内容を知ることができないでいながら、
自分を中心とした目的観をもって
羊の群れを引導するふりをし、
自分たちの目的をなそうとしたので、
その内心を責められたのです。
それゆえにイエス様は、ご自身だけが
善なる牧者であると強調なさいました。
「私は、あなたたちに
真の生命を与えることができる」と語られたのです。
☆
私たちを真の生命で生まれ変わらせてくださる主が
真のご父母様になられましたので、
私たちはその方と真の子女の関係を結ばなければなりません。
なぜなら、私たちには真がないからです。
多くの宗教が今まで神を探し求めてきたけれども、
すべて自分のゆえに探し求めてきました。
自分が難しくて探し求めたと言えば理解しやすいのです。
彼らは、天のためにすることのできる内容がないので、
真情から付け加えるものを与えることができません。
それゆえに「偽り」になり得る立場であり、
「真」ではありません。
☆
「真」がない人たちは、他人に
生命の喜びを与えることもできないし、
他人のためにする能力もありません。
ですから、他人を害することしかしない
「偽りなる牧者」だとイエス様は断定されました。
この地上に生きる人たちは、
大部分が自分たちの利益を中心として生きる人たちです。
それゆえにイエス様が「私があなたたちに
生命を与え、その生命を豊かにしようとして来た」
と語られたことは実に驚くべきみ言です。
☆
今日、多くの信仰者たちは、すべて
自分のゆえに主を探し求めています。
すべての宗教が、病人が医者を探し求めるのと
同じ様相なのです。
ところが今日、統一教会は
どのような点が異なるのでしょうか?
人類は、堕落の後孫として真の父母を失ったので、
真のご父母様として来られた主によって
真の子女たちになり、
神の願いのために生きようとする点が違います。
このような群れが集まった所が統一教会だということを、
私たちはいつも忘れてはなりません。
このような点が他の宗教と本質的に違うのです。
統一教会の信徒たちは、他の信仰者たちと信仰内容が
本質的に異ならなければなりません。
私のゆえに神がおられるのではなく
神の願いのゆえに私がいるという考え、
他の宗教人たちとは
本質的に異なった考え方をしなければなりません。
これが、成長した子女たちが
もたなければならない内容です。
☆
あたかも未成年期の子女は、
今なお自分の願いを中心として父を好きになりますが、
だんだん成長して分別がつくようになれば、
自分の父母の気掛かりや心配事に
責任を負おうという考えをもつようになります。
そのように、統一教会の信徒たちは
蘇生期の信仰者とは異ならなければなりません。
私たち統一教会の信徒たちは、
祈祷するときにも祈祷の内容が異ならなければなりません。
今なお私たち統一教会の食口が、
自分を中心とした事情と願いをもって、
このようにしてくださいとか、
また、サタンがすきに付け入らないようにしてください
という祈祷をするならば、
分別(ふんべつ)がついておらず、原理が分からない人です。
1979年9月9日 韓国本部教会
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「私は善なる牧者」
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「私は善なる牧者」
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再編集 文責:ten1ko2
※下にヨハネ福音書10章の関連部分を掲載しました
※下にヨハネ福音書10章の関連部分を掲載しました
善なる牧会者として、
真の生命を与えていかれたイエス様。
自分を中心とした信仰、願いをもって
歩む教会指導者たちを
「どろぼうであり、強盗である」
そのようにイエス様は語られます。
私たちは、貴い道に導かれながら、
イエス様、真の父母様と同じような
真の生命を求める歩みをしているでしょうか。。。。
清平の天心苑徹夜精誠においては、
真の父母様と心情を共鳴するべく、
精誠を捧げているところです。
今日の夜には1000回目を迎えます。
1000回を超えるとさらに恩恵があるし、
自然と問題が解決するであろう、と言われております。
何よりも天と相対できる者になることを
念頭に置きながら、歩んでいきたいです。
1よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。 2門からはいる者は、羊の羊飼である。 3門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 4自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。 5ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。 6イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
7そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。 8わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。 9わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。 10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。 11わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。 12羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。 13彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。 14わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。 15それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。 16わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。 17父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。 18だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。ヨハネによる福音書 10章1節〜17節
(口語訳)
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