李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
1977年のみ言「イエス様の内的生活」より
「原理を中心とした生の偉大性」です。
☆
原理を中心とした生の偉大性
皆さんがこのみ旨を知って既成教会の
牧師や信徒たちにみ言を伝えるようになるならば、
皆さんの足が地にくっつきますか?
キリスト者にみ言を伝え、彼らが喜ぶのを
見るならば、私の足が地につきそうにもありません。
以前に、私の心をどう表現していいか
分からないほどうれしい経験をたくさんしました。
私たち信ずる人がみ言を分かち合い、
互いに喜び合うならば、その時に
私の心霊も力を得るのです。
ですから、日常、対話するときにも
世の中の話をせずにみ言を中心として授受し、
何を見ようとも原理的に考えることができなければなりません。
☆
先生は、平時、み言を語られても
「それ、蘇生、長成、完成だなあ」と言われるのです。
冗談も原理的に、何をごらんになっても
原理的に話してくださいます。
釣りをしても、ノル(韓国特有の動物。鹿の一種)を
捕まえに行っても、原理のみ言です。
ある日、ノルを捕まえに行ったのですが、
ノルが約七分間、一生懸命走って山の上のほうに行っては、
ぱっと立ち止まって左右を見回します。
再び走ろうとするとき、先生がノルを撃って命中させながら
「見なさい。三年の峠を越えていくときは、
あのように左右を見回して倒れやすくなるのです」
と、私たちに一言おっしゃいました。
☆
またある時は、小川の岸に腰かけて
水が流れるのを見ておられました。
水が下ってきて岩にばっとぶつかり、
ふぃっと回っていくのをごらんになっては、
「それみなさい、復帰摂理、蕩減復帰が
すべてそうなのです」と語られました。
皆さんが水を眺めるとき、流れる水が
くるくる回りながら泡もでき、さらに
ぐるぐる回るのが見た目に良いですか?
なめらかに流れていく水が見た目におもしろいですか?
だれであってもくるくる回っていく水を見物することを願うのです。
☆
み旨のために苦労する人は、神の心を
そこに結びつけることができます。
水が流れてくるくる回るというのは、
苦労のことを言うのです。
ところで人はそれをみな興味深くのぞき見ているのですね。
同じく神もみ旨を抱いて苦労する人に一層心がいくのです。
このように先生は、流れる水を見ても神を
発見しようと努力なさる方であられます。
私たちも原理を知ってみるならば、
対話が貧しいものになりません。
すべてのことを原理的に悟らなければなりません。
そのようになるならば、私たちの内なる人
(霊人体)は、腹が膨れるというのです。
諸職者(教会組織の役職者)研修会での説教
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
1977年10月2日 韓国中央修練所
信仰生活シリーズ3 聖書の中の心情圏
摂理の中心家庭に学ぶ信仰姿勢 李耀翰
U 復帰摂理の恨
「イエス様の内的生活」
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再編集 文責:ten1ko2
自然万物を見て、
神様を感じる、といいます。
しばらく教会をお休みしていた祝福二世が
南米のレダの大自然に触れて感動し、
教会に戻ってきた、という証しを聞きました。
人間は本来は、自然とともに生き、
自然を通して、神様を感じるように
なっているのかな、と思います。
そして、宇宙は神様が創造され、
すべてが原理に従っているのですから、
非原理に思える今の日常の中にも、
必ず、創造原理的な本然の真理に通じ、
神様に通じるものがあるに違いありません。
真のお父様のように、
今ある環境の中においても、
求める心があれば、神様を感じ、また
これまでの苦労が報いる時が来ると思うのです。
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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
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過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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