祝福家庭 編集部員のブログより、
「57年前の命の恩人を訪ねて」です。
☆
57年前の命の恩人を訪ねて
甲辰(きのえ たつ)の年に生まれた私、
実は半世紀以上の間、
手をつけられずにいたことがありました。
それは、今は亡き両親から課されていた、
宿題のようなものです。
私は3歳のときに、川に落ちて
危うく死ぬところを救われました。
その命の恩人を探して
お礼を言うようにと言われていたのです。
話は、57年前にさかのぼります。
当時、私の家族は長野県のとある市で、
かじ屋を営む一家の物置小屋を借りて暮らしていました。
その家と道路の間には、小さいけれど
流れの速い川がありました。
入居後に大工職人の父が、道路と
行き来しやすいようにと、玄関の前に橋を造りました。
その橋の上で、3歳上の姉と遊んでいたとき、
何かの拍子に足をすべらせて川に落ちてしまったのです。
姉は、私の名前を叫ぶことぐらいしかできず、
ただ流れていく私を見つめるだけだったそうです。
何分くらいたったでしょうか、運良く
私は引き上げられて、助かりました。
拾い上げてくれたのが、すぐ川下にあった
大家のかじ屋さんの息子だったと、両親から教えられました。
2年後、わが家は市内の別の地区に引っ越しました。
その後、私は県外の高校に進学し、
卒業後もほとんど首都圏で生活してきたため、
恩人を探すきっかけがありませんでした。
☆
還暦を迎える今年、ついに一念発起しました。
2月、天皇誕生日を含めた3連休。
生まれ故郷で恩人探しを始める決意をしたのです。
1日めは、事故の目撃者である姉を訪ねて、
今回の帰省の目的を告げました。
姉も「そうね、恩人に
お礼を言わなければならないね」と、
ハンカチで目頭を押さえながら言ってくれました。
2日めは、両親の墓前に帰省の目的を報告し、
それまでの親不孝を詫びました。
両親は1960年に結婚し、ある宗教団体の
物置小屋で家庭を出発。
その宗教団体は、その頃、故郷で
ブームになっていたもので、狭い町の中に
同系の布教施設が5つもできるほど興隆していたそうです。
兄と姉がそこで生まれ、私がお腹に宿ったとき、
両親は新しい住居を探して引っ越しました。
☆
それが、私が事故に遭った川のそばの家でした。
恩人探しの手掛かりは、昔、かじ屋をしていた家。
あとは子供の頃の断片的な生家周辺の記憶。
駅前から旧・北国街道を南下すると、
おぼろげながらに当時の記憶が蘇ります。
通い慣れた小学校を過ぎ、次第に
目的地が近づきますが、流れの速い川は
すでに暗渠(あんきょ;埋没された水溝)へと姿を変えていました。
歩みを進めると、やがて見覚えのある
三差路に差し掛かりました。
右の道を選びそのまま歩くと国道に出ます。
昔、母に手を引かれ、バスの停留所まで
歩いたのを思い出しました。
そうです、生家跡を通り過ごしていたのです。
母の手の温もりを思い出した瞬間、
母が近くにいるような感じがしました。
「いつから一緒に歩いていたの」と、
見えない母に尋ねながら少し戻り、
何か昔の痕跡のようなものを探しましたが、
何もありません。
☆
位置的に生家跡の大体の見当をつけ、
今風の住宅の玄関先でインターホンのボタンを
恐る恐る押してみました。
昔、この辺りにいたかじ屋さんを
探していることを伝えると、
「うちは違います。隣の家で聞いてみて」
との答え。
隣家を訪ねると、70歳代の老夫婦が応対してくれました。
そして老人が「うちの父は、
むかしここでかじ屋をやっていました」
と教えてくれたのです。
私は、3歳の頃の自分が川に落ちた一件を説明し、
かじ屋さんの2人の息子さん(中学生と高校生)に
救われたことを話しました。
すると老人が、「それは自分と弟のことだよ。
大工の◯◯さんのこと、覚えているよ」と、
私の父の下の名前を叫んで、微笑んだのです。
父の気配まで感じた瞬間です。
☆
それまでけげんな表情で聞いていた夫人も、
夫のようすを見て笑顔に変わりました。
物置小屋だったため、当時の家には風呂がなく、
入居当初は銭湯通いでしたが、私が生まれてからは、
かじ屋さんの母屋で頻繁にお風呂を
呼ばれるようになったことを伝えると、
恩人もニコニコ顔でうなずいていました。
そんな話をしばらくした後、菓子折りを差し出して
改めて感謝の気持ちを伝え、そこを辞しました。
私の両親の気持ちも一緒に届けられたような、
清々しい気持ちになりました。
☆
今でも、川の中で見た光景を思い出すことがあります。
とっさに息を止めじっとしていると、
やがて目の前に水面が近づき、
息ができるようになりました。
呼吸ができると、不思議と
恐怖心に襲われることはありませんでした。
しばらく流れに身を任せていると、
目の前に体の大きい男子が現れ、
私を両腕で抱きかかえたのです。
その男子のそばに寄り添い体を支えていた
兄らしきもうひとりの男子が、
今回私が会った老人、その人でした。
恩人が現在も健勝で、同じ場所に住んでおられた
などの幸運が重なり、意外とあっけなく
ミッションが終了しました。
☆
母は生前、私に「かじ屋さんの息子さんに
救われたのは、親神様(この世、人間をお創りくだされた神様)の
ご守護だよ」と繰り返し言い聞かせてくれました。
以前にもその川では、溺れて亡くなった
幼児が何人かいたそうです。
神様に救われたことがただ嬉しくて、
神様のことが好きになりました。
1983年に長野家庭教会でみ言を学んだのも、
「大好きな神様のことがもっと知りたくて」
が、その動機でした。
☆
3日めに帰宅し、妻と息子に旅の報告をしました。
今回の帰省は、両親と一緒に
私の命の恩人を探すことができたという点で、
他の帰省のときとは違い記憶に残る3日間であったこと、
そして何よりも神様が私の命を救ってくださったことを
再確認できた帰省だったことを伝えました。
「おやき」と「野沢菜漬け」のみやげも好評でした。
命を救っていただいた上に、妻と息子までいて、
還暦まで生きることができました。
神様には、ただ感謝の気持ちしかありません。
☆
再編集 文責:ten1ko2
命の恩人にお会いできて、
本当に良かったですね。。。
霊界にいらっしゃるご両親も、
霊的協助もあったと思いますが、
どれだけ喜ばれていることでしょう。。。
人間の力ではどうすることもできない、
不思議な導きというものがあります。
命に関わることも、
「導かれて助かった」という
他ないことがあったりします。
いつも同じことばかり言いますが、
天心苑の徹夜精誠もそのうちの一つだと思います。
ただ精誠を尽くすことが、
奇跡を起こすことである。。。
そう信じていきたいと思うのです。
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※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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