2024年04月06日

まずゴミを見つける?! 副作用ゼロの蕩減の捨て方は、感謝しかない 《蝶野部長精誠篇》第3巻スタート!



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お待たせしました!
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の 
「精誠篇(せいせいへん)
3コマ目の講座を紹介します。


感謝ということは、もう何度も聞いてきたと
思いますが、それでも感謝できない。

でも(前の講義で)言葉で思うだけでもいいと話しました。
だけども、(心が)しっくりきたら
心から言いたいということもありますよね。

心から言いたい、心から言えない時には、
言葉だけでもいいということになります。

ただ結局、この蕩減というのは、
その発した一つの言葉で、
整理されるような軽いものもあれば、
感謝したその心で神様を迎えながら、
実体で苦労して切り開くという場合もあります。

いづれにせよ感謝から始まるんですね。

摂理とか、み旨というのは、感謝がなければ
まあ動いた分だけのことは動くかもしれませんけども、
何をやっても、神が私を通してやったと、
そしてプラス私の内面が作られていくということ、
これを得ようと思ったら、
やはりこの内面を無視することができない。


ですから そこで考えたいのは、
越えなければならないない内容は、
まずそれと出会わなければならないんですね。

だから、我々が感謝できないことと出会います。
でも、それは越えなければならないことなので、
これが、出会わないと始まらないのです。

例えば、家の中を掃除するためには、
何と出会わないといけない?
ゴミですね。
ゴミと出会わなければならない。

ゴミなんですよ。


掃除の好きな人は、
「あーここにもゴミがあった」って喜ぶんですね。

それなんです。
『あ、これで自分が綺麗になる』。

お父様(文鮮明先生)でも蕩減がいやだと
思ったんだけども、蕩減だと思ったら、
愛することができるようになったということです。

掃除が好きな人はゴミを愛しているのです、
「あった!」と思って。

でも、ゴミ自体が好きなわけじゃないんです。
ゴミが好きってのは、ちょっと異常ですからね。
そうじゃなくて、キレイになるために出会ったので、
喜んでいる状態です。


それと同じ感覚でいてください、心の蕩減の内容も。
自分の蕩減と出会うと、
『あ、これこの部分が私のゴミなんだ。見つけた!』

例えば「この礼拝堂に10個ゴミ隠しました」と、
「全部を見つけたらハワイ旅行ですよ」って言ったら、
1個を見つけるたびに嬉しいですよね。
あ、1個目、1個目って、
あの感覚で蕩減ができるのです。

楽しくてしょうがないんですよ。
そういうふうな感覚だと思ったらいいんですよ。
おまけに感謝できる心も作られます。

副作用ゼロです、皆さん。
かかる費用は0円ですよ。
タダでそんなことが良いことができる。

心を一つの主観、私の心の主人は私であるということです。
再創造の主人は私である。私に、全部任されているんです。


だから結局このゴミ。
ゴミを一個一個、こういうふうに見つけました。

ゴミと出会った、キレイになるから嬉しい、
感謝、ということですよ。

カチンとくることがあったら、
それだけ分、綺麗になるものを見つけた。
キレイになるためには出会わないといけない。

そのためには、その人がカチンとくることを
言ってくれないと、ダメなんです、これ。

だから、言ってくれた事に感謝
ということになるわけですよ。わかりますよね。

結局、蕩減するためには、
まずその「思い」と出会わないといけない。
思いと出会うためには「出来事」が
起こらなければならないわけですね。


ただ祝福家庭でもですね、
ご主人がパチンコ狂いで大変だと、
でも苦労して苦労して、大変だ
という方がいらっしゃいましたよ。

夫のパチンコ狂いで悩む蕩減が
その家にあるんですね。

ということは、それを清算するためには、
夫がパチンコ打ってくれないとダメなんですよ。
打ってくれないと清算できないんだから、
パチンコを打つことに悩むのを蕩減するためには、
打ってくれないと。

だからありがとうございます、となるわけですよ。
わかります、この世界が。


だから、非常に簡単にできる。
昔はうーんって気張ってたのがですね、
今だいぶ変わってきた。

自分に出てきた堕落性の思いってありますよね。
この講義聞いて帰り際から、
もう口から出てくる人もいるかもしれませんね。

ですから、結局ですね、私たちは
自分に悪い思いが出てきたときに、
『ああ、またやっちゃった』とですね。
相手とか自分、『やっぱり自分てダメだな』
と、自分を悪く思わないようにしてください。

『まあ聞いても、私すぐ忘れるから』、
という風にして、
みなさん、100%忘れるからご心配なく。
全員がお手々つないで100%忘れますから、
それは大丈夫です。

忘れたのを思い出してほしいだけなんですね。
相手や自分を嫌に思わないことです、これ。

自分の堕落性って、もう根強いですから。


だけどもいやに思わない。
これは発見できた自分の蕩減内容を、
抱えてしまってるんですよ。

あぁ、自分のゴミだーって。
皆さん家で掃除するとき、ゴミを体で抱えます?
見つけたゴミを、全部抱えませんよね。

ゴミは捨てるために見つけるわけです。
だから捨てたらいいだけですよ。

ですから清算のチャンス、(=蕩減)
今日のことできれいにするチャンス、
掃除のチャンスということですよ。

清算のチャンスのために、
思いを体験しているに過ぎないんです。

もう1回言います。
清算のチャンスのために、
思いを体験しているだけです。

その皆さんの堕落性自身(自体)が
皆さんじゃないのです。
そう思ったらいいです、逆に、うん。

体験してるにすぎないと悟ること。
ゴミは発見して抱えるものでなく、捨てるものだから。


どうやって捨てます?

「ありがとうございます」と言ったら
捨てることになるんです。

だから神様とサタンから見たら、
「こいつはこんな目に遭っても
ありがとうございますと言ったぞ」と、
これは罪の清算の方に回すしかない、
となるわけですよ。

蝶野知徳・精誠篇3 
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)


やはり、何事にも感謝する、
という意識の捉え方が必要なのだ、と感じます。

真の愛を体恤していれば、
どんな試練を受けても、
堕落性に引っかかることはありません。

私たちは、本当に細かいことに引っかかります。
でもそれは、「私の成長のために、神様から与えられたもの」
そのように、受け止めることが重要なのだと思います。



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posted by ten1ko2 at 11:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 蝶野部長 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする