お待たせしました!
蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」
3コマ目の講座を紹介します。
☆
感謝ということは、もう何度も聞いてきたと
思いますが、それでも感謝できない。
でも(前の講義で)言葉で思うだけでもいいと話しました。
だけども、(心が)しっくりきたら
心から言いたいということもありますよね。
心から言いたい、心から言えない時には、
言葉だけでもいいということになります。
ただ結局、この蕩減というのは、
その発した一つの言葉で、
整理されるような軽いものもあれば、
感謝したその心で神様を迎えながら、
実体で苦労して切り開くという場合もあります。
いづれにせよ感謝から始まるんですね。
摂理とか、み旨というのは、感謝がなければ
まあ動いた分だけのことは動くかもしれませんけども、
何をやっても、神が私を通してやったと、
そしてプラス私の内面が作られていくということ、
これを得ようと思ったら、
やはりこの内面を無視することができない。
☆
ですから そこで考えたいのは、
越えなければならないない内容は、
まずそれと出会わなければならないんですね。
だから、我々が感謝できないことと出会います。
でも、それは越えなければならないことなので、
これが、出会わないと始まらないのです。
例えば、家の中を掃除するためには、
何と出会わないといけない?
ゴミですね。
ゴミと出会わなければならない。
ゴミなんですよ。
☆
掃除の好きな人は、
「あーここにもゴミがあった」って喜ぶんですね。
それなんです。
『あ、これで自分が綺麗になる』。
お父様(文鮮明先生)でも蕩減がいやだと
思ったんだけども、蕩減だと思ったら、
愛することができるようになったということです。
掃除が好きな人はゴミを愛しているのです、
「あった!」と思って。
でも、ゴミ自体が好きなわけじゃないんです。
ゴミが好きってのは、ちょっと異常ですからね。
そうじゃなくて、キレイになるために出会ったので、
喜んでいる状態です。
☆
それと同じ感覚でいてください、心の蕩減の内容も。
自分の蕩減と出会うと、
『あ、これこの部分が私のゴミなんだ。見つけた!』
例えば「この礼拝堂に10個ゴミ隠しました」と、
「全部を見つけたらハワイ旅行ですよ」って言ったら、
1個を見つけるたびに嬉しいですよね。
あ、1個目、1個目って、
あの感覚で蕩減ができるのです。
楽しくてしょうがないんですよ。
そういうふうな感覚だと思ったらいいんですよ。
おまけに感謝できる心も作られます。
副作用ゼロです、皆さん。
かかる費用は0円ですよ。
タダでそんなことが良いことができる。
心を一つの主観、私の心の主人は私であるということです。
再創造の主人は私である。私に、全部任されているんです。
☆
だから結局このゴミ。
ゴミを一個一個、こういうふうに見つけました。
ゴミと出会った、キレイになるから嬉しい、
感謝、ということですよ。
カチンとくることがあったら、
それだけ分、綺麗になるものを見つけた。
キレイになるためには出会わないといけない。
そのためには、その人がカチンとくることを
言ってくれないと、ダメなんです、これ。
だから、言ってくれた事に感謝
ということになるわけですよ。わかりますよね。
結局、蕩減するためには、
まずその「思い」と出会わないといけない。
思いと出会うためには「出来事」が
起こらなければならないわけですね。
☆
ただ祝福家庭でもですね、
ご主人がパチンコ狂いで大変だと、
でも苦労して苦労して、大変だ
という方がいらっしゃいましたよ。
夫のパチンコ狂いで悩む蕩減が
その家にあるんですね。
ということは、それを清算するためには、
夫がパチンコ打ってくれないとダメなんですよ。
打ってくれないと清算できないんだから、
パチンコを打つことに悩むのを蕩減するためには、
打ってくれないと。
だからありがとうございます、となるわけですよ。
わかります、この世界が。
☆
だから、非常に簡単にできる。
昔はうーんって気張ってたのがですね、
今だいぶ変わってきた。
自分に出てきた堕落性の思いってありますよね。
この講義聞いて帰り際から、
もう口から出てくる人もいるかもしれませんね。
ですから、結局ですね、私たちは
自分に悪い思いが出てきたときに、
『ああ、またやっちゃった』とですね。
相手とか自分、『やっぱり自分てダメだな』
と、自分を悪く思わないようにしてください。
『まあ聞いても、私すぐ忘れるから』、
という風にして、
みなさん、100%忘れるからご心配なく。
全員がお手々つないで100%忘れますから、
それは大丈夫です。
忘れたのを思い出してほしいだけなんですね。
相手や自分を嫌に思わないことです、これ。
自分の堕落性って、もう根強いですから。
☆
だけどもいやに思わない。
これは発見できた自分の蕩減内容を、
抱えてしまってるんですよ。
あぁ、自分のゴミだーって。
皆さん家で掃除するとき、ゴミを体で抱えます?
見つけたゴミを、全部抱えませんよね。
ゴミは捨てるために見つけるわけです。
だから捨てたらいいだけですよ。
ですから清算のチャンス、(=蕩減)
今日のことできれいにするチャンス、
掃除のチャンスということですよ。
清算のチャンスのために、
思いを体験しているに過ぎないんです。
もう1回言います。
清算のチャンスのために、
思いを体験しているだけです。
その皆さんの堕落性自身(自体)が
皆さんじゃないのです。
そう思ったらいいです、逆に、うん。
体験してるにすぎないと悟ること。
ゴミは発見して抱えるものでなく、捨てるものだから。
☆
どうやって捨てます?
「ありがとうございます」と言ったら
捨てることになるんです。
だから神様とサタンから見たら、
「こいつはこんな目に遭っても
ありがとうございますと言ったぞ」と、
これは罪の清算の方に回すしかない、
となるわけですよ。
蝶野知徳・精誠篇3
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
やはり、何事にも感謝する、
という意識の捉え方が必要なのだ、と感じます。
真の愛を体恤していれば、
どんな試練を受けても、
堕落性に引っかかることはありません。
私たちは、本当に細かいことに引っかかります。
でもそれは、「私の成長のために、神様から与えられたもの」
そのように、受け止めることが重要なのだと思います。
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なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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