2024年08月31日

出発の祈り「監獄での毎日に神様の香りが漂うようにしてください」 《ダンベリー精神》



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▲出発に当たり、み言を語られる真のお父様


Blessed Lifeより
「ダンベリー精神」の続編になります。
お父様の祈りが綴られています。

ダンベリー出発に際してのみ言@祈祷
「監獄での毎日の生活圏内に
神様の香りが漂うようにしてください」

愛するお父様、きょう1984年7月20日、午後6時44分、
この時間を期してイーストガーデンを出発いたします。

これから子女たちと共に全体を代身して、
お父様の前に一つの十字架を背負って行きますので、
お受け取りください。

これからはお母様を中心として、特に孝進(ヒョウヂン)君と
譽進(イェヂン)さんが一つとなり、
父母様の苦労の道を代身する立場において、
十字架を背負って、お父様が全てを勝利して
出てこられる時まで、お父様の代役として
受難の責任と重要な責任を負いますので、
彼らを協助してくださいませ。

召命に恥じないよう責任を果たします

私はいかなる場に行っても、お父様に侍(はべ)って
私に与えられた召命に恥じないような責任を果たしますので、
天よ、ご心配ならさずに、より家庭を守り、教会を守り、
キリスト教を守り、アメリカと自由世界を守って、
共産世界にまで救いの道を開くことができますように。

真の父母と真なるアベルが一つとなることによって、
長子であるカイン圏が
自然に屈服することのできるその日まで、
歯を食いしばってでも耐えていかなければならない
私の道ですので、その時までは、受難の道を
感謝でもって消化しなければならない
私たちの行く道でありますので、
全てをお父様の前に感謝し、きょう出発します。

この身を受け、主管してくださいますことを
切にお願いいたします。


これからはダンベリーという収容所に入っている
150人の人々の心を感化してください。

私が行くことによって、悪なる人たちが
善人になるように許諾してください。

名もなく服役している私の姿を見て、
その心に感動を受けることができる、
神の因縁が共にあらんことを。

興南(フンナム)の監獄で共におられたお父様が、
この場においても共にいてくださることを信じています。

興南の監獄は敵の国にありましたが、
ここの監獄は神様の国にある監獄ですので、
安心して行けることを感謝し、
そこにおいてもあなた様の予定した人が
いるとしたら伝道して、この国の、
この世界の助けになることのできる
一つの門を開くことのできる道と
なるように許諾してください。

神様が残した領土でありますので、
私はそれを管理し視察しようとして行きますので、
行く道を祝福してくださることを切にお願いいたします。


そして所長と職員全体が心を合わせて
新しい霊的な雰囲気がそこに表れるように許諾してください。

過去の歴史において、看守の生活をしていた
全ての善なる人々がここに再臨して、
彼らの心を善にし、毎日の生活圏内に
神様の香りが漂い、恵みの雰囲気が
全ての環境を消化することができるように許諾してください。

夢や啓示で示して、言葉なき中において
神の心情の土台を広めることのできる
美しい地域を心から成すことのできるように
許諾してくださいますよう切に願ってやみません。

きょうの涙は希望と決意の涙

天全体の宝座を中心として、興進(フンヂン)様と
イエス様を中心とする全ての霊界が、
全ての先祖たちが、この時間に
頭(こうべ)を垂れて真の父母の行く道に向かって
涙し、敬礼することを考えながら、
地上においては私たちの統一群が心を合わせて、
父母様の行く道を祝賀するこの場を父よ、祝福してください。

心情的絆を強くし、今日の恵沢を、
お父様が祝福したい心の場を、恵みとして
与えてあげてくださることを切にお願いいたします。

今、全てをお父様の前に感謝で受け入れ、
これからの全ての環境が難しくとも消化し、
吸収し、克服していくことをお父様の前に
宣誓し、盟誓しますので、お父様はご心配なさらず、
むしろ私の代わりにお母様を保護し、
子女たちを保護し、教会を保護し、
キリスト教と自由世界を保護し、
さらに大韓民国を記憶してくださることを
切にお願いいたします。

いまだに残っている共産国家までの救道の
十字架の道を見つめつつ、私の年齢が
70歳に近づくこの時代の早い時期に、
あなたに有終の美をおさめることのできる
一つの契機であり、蕩減(とうげん)期間として
受けて立つ私の心であります。

これを矜恤(きょうじゅつ/哀れみ恵むこと)に思ってくださいまして、
万福を地球星に許諾してくださることをお願い申し上げます。

きょう流す涙は、悲しみと失望をもたらす涙ではなく、
希望と決意を新たにし、全天下に忠孝の道理を誓い、
忠臣と聖人と聖子の立場を果たすことのできる涙と
なすことができるように許諾してくださることをお願いいたします。

そのようにして、生涯において恥ずかしい涙を流すことのない
誇らしい子女となることを宣誓いたしますので、
矜恤にお受けくださることを切にお願い申し上げます。

力強く行路の歩みを踏み出してまいります

統一教会(現・家庭連合)のメンバーによる
大きな声が聞こえる時、それはお父様の
解放の歌を讃美する歌として万人の耳に響き、
お父様の心に歓喜と歓声として聞こえ、
全てのことが成就されますよう
祝福してくださることを切にお願いいたします。

再び会うことのできる時まで、彼らをあなたの愛で、
夜明け前の冷たい風を経て神の恵みを受けて
朝の日差しに光る露のように、お父様の誇りと栄光が
芽生えることができるように祝福してくださることを願いながら、
再び会う時までこの場で祈祷することもできない
私に代わり、このみ旨が成就できるように
そのような祈祷をし、毎週の敬礼式に祝福を施し、
祈願してくださることを再三お願い申し上げます。

私がいなくとも、ここに父母様と子女たちと
祝福家庭が一つとなり、統一教会が一つとなり、
既成教会が一つとなり、自由世界が一つとなるようにして、
あなたのみ旨を成すことのできる父母の立場を探し求め、
栄光で成就することのできるように心から深く誓いながら、
力強く行路の歩みを踏み出してまいりますので、
お父様が許諾してください。

万万歳の恵みがあるよう。
これらの全てを真の父母の名をもって
お祈りいたします。アーメン。

(『ファミリー』1984年10月号より)

ダンベリー精神 4
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=25538
(Blessed Lifeより)

イーストガーデン
再編集 文責:ten1ko2


お父様の祈りの中には、
恨みや後悔の言葉などは一切ありません。

どこまでも神様を慰労し、
この歩みを条件としながら、
未来に希望を持たれる
お父様の懇切な思いが伝わってきます。

私たちは、どんな状況にあっても、
必ずプラスに転じるのだ、
そんな思いをもっていきたいと思うのです。



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2024年08月30日

田中会長の気づき 「悔い改めるとは、こういう世界なんだ」 《名節のみ言》



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先日行われた「第34回七・一節および第28回七・八節 敬礼記念式」
松濤本部では、田中会長の記念説教がありました。

後半部分を抜粋して紹介します。


 8月4日、東京・渋谷の松濤本部で、「第34回七・一節および第28回七・八節 敬礼記念式」が行われました。その式典で語られた田中富広会長の記念説教の要旨を紹介します。

■摂理が大きく転換した1991年からの約10年間

お父様のみ言にこうあります。

 「今からは家庭伝道時代です。先生の家庭を中心として、公式的な中心が現れ、これを皆さんに連結する時なので、家庭を中心とした伝道時代に入るというのです。家庭単位の中心は女性であり、母親です。母親が二人の子女を抱いていかなければなりません。母親を中心として息子、娘を一つにすれば、すべて終わります。息子、娘の問題はありません」(天一国経典『天聖経』9・1・2・18)

 このようなみ言とともに、母が前面に出てきたということは、正に家庭中心の摂理圏に入ったということです。

 神様の創造理想が着地するのは家庭です。そこに天の父母様(神様)と真の父母様をお迎えして、氏族メシヤを勝利する。我々がやるべきことは実にシンプルです。

■天心苑徹夜精誠で証しする二世の心情世界

 大事なのは、今お話しした摂理観に向き合っていく、私たちの姿勢です。そのキーワードは、「悔い改め」です。「悔い改める」ということは、簡単ではありません。悔いることはするけれども、改められないので、勝利できないのです。

 最近、「ああ、悔い改めるとは、こういう世界なのだな」と感じることがありました。

 それは、天心苑特別徹夜精誠で証しする二世たちの心情世界です。この二世たちの証しのほとんどが、真のお母様の心情に触れて、変わっていった内容です。すなわち、本当の意味での悔い改めは、聖霊によってなされるということです。聖霊による感動なのです。

 お母様の心情に触れることで、過去の全てが違って見え始め、自分が教会を恨んでいた思いが別の角度から映し出されてくる。親を恨んでいた思いが、別の角度から解け始める、など。全ての証しが、お母様の心情圏に触れている、正に、実体聖霊の役事です。

 お母様が「天の母」という側面も強く訴えられるようになってから、二世圏が全く新しく実体聖霊に向き合っていくうねりを、今、霊性40修を通しながら体感しています。

 二世たちが純粋にお母様の前にぶつける心情圏を、お母様もワンオンマとして全て受け止められます。そして、彼らは、純粋な心情で、決意を持って天の前に立ち上がっていっているのです。今、二世とお母様がつくっている心情圏が、摂理の最前線となって動いています。

■天の父母様を家庭に着地させていく姿勢が必要

 先日、お母様との時間を持つ中で、私は改めて一つのことを感じました。

 実体のお父様が前面に出てきていらっしゃるときに復帰された一世の古い私たちは、お父様を通して神様を知りました。ですから、祈りのときも、「天のお父様」と言えば、すっと祈ることができました。そのときは、お父様を仲保として天のお父様につながったのです。

 しかし今は、お母様を仲保としながら、天のお母様に通じる時代です。それでやっと、天の父母様なのです。天のお父様だけではないのです。天の父母様になってこそ、我々に本当の「孝情」が芽生えてくるのです。

 天のお父様は、真のお父様が連結してくださり、天のお母様は、真のお母様が連結してくださいました。正に今、神様が地上に天の父母として着地できる、希望の時代を迎えたのです。

 神様を着地させる所は、天一聖殿の建物ではなく、我々の家庭です。我々の家庭に父母として着地させていくという姿勢を身につけなければ、過去の名節を、ただの記念式典で終わらせてしまいます。

 この名節に込められた天の意義を、私たちの家庭に着地させるという気持ちを持たなければなりません。そのように名節に向き合っていきましょう。

会長メッセージ
世界平和統一家庭連合 会長 田中富広

摂理に向かう私たちに必要な
聖霊による悔い改め
https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=10111
光言社・中和新聞より
再編集 文責:ten1ko2


本当の悔い改めは、
「聖霊」によるものである、
なるほどな、と思いました。

実体聖霊、真のお母様と一つになる、
一つになればなるほど、
本当に役事が起きるのだろうと思います。

今、徹夜精誠で取り組む、私のテーマです。




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2024年08月29日

「獄中で主に会う」啓示は果たされていた?! 20世紀の春香の末路 《金元弼先生のベストアンサー》



210517.jpg
20世紀中盤の平壌(日帝時代)


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。

「獄中で主に会う」という、春香伝のような
啓示を受けていた、腹中教の許孝彬(ホホビン)
啓示は果たされたのか、結論のお話です。


先生は、腹中教の責任者である婦人(許孝彬)に、
何とかして手紙を渡して、
彼女が出るようにしなければなりませんでした。

そこで、留置されている人には全員に
弁当が与えられますが、
その中の底の方に小さなメモを入れました。

もし、それが見付かれば大変なことです。
先生御自身も、スパイの疑いをかけられて、
そこに入っていて大変な拷問を受けていた時でした。

では、そこにはどういうことが
書かれてあったのでしょうか。

その手紙には、まず
「腹中教を否定して出て行きなさい」と書かれ、
そして終わりに、
「これを書いた人がどういう人であるか、
神にお祈りしなさい」
と書き加えられていました。


後にそれが発見されて、先生は大変な拷問を受けました。
その当時は、日本が韓国を植民地として支配していた時に
韓国の人たちを治めていたそのやり方で拷問したのです。

耐え切れないほどの拷問を受けて歯は折れ、
たくさんの血を吐きました。

約80日から100日ぐらいの間の拷問の後に無罪とされ、
(19)46年11月21日、牢屋から出るようになったのです。

けれども先生は瀕死の状態で、たくさんの血を吐きました。
そこで先生の周りに集まっていた食口たちは、
死んでしまわれるのではないかと心配してお世話しました。

 
結局そのリーダーは、先生のメッセージのごとくしませんでした。
そこでそのリーダーとメンバーは、
六・二五の韓国動乱の真っ最中に、全員殺害されました。

今まで長い間、直接の啓示によって
すべてをなしていた彼女にとって、
今まで教えてくれたその事実を否定することは、
死ぬ以上に難しいことでした。

しかし牢屋の中で再臨の主を迎えるようになるだろうと
啓示されたことを考え、また
「手紙の主が誰であるかお祈りしなさい、
書いた人が誰であるか神にお祈りしてみなさい」
という、そのことをその婦人が
本当に思い浮かべたとするならば、
今お話ししたような失敗はなかっただろうと思います。

結局は全員強制労働所に送られて、
二年後に動乱が起こり、全員虐殺されてしまったのです。

 
神の啓示のごとく、
「あなたたちを迎え入れる人がいるでしょう」
と言われたとおり、迎えたのです。

それは迎えることによって、
次のみ言に合わせるためです。

というのは、春香が自分の約束の人と
牢屋で会えるようになるだろうと言われたごとく、
その人たちを牢屋にぶち込む者が
いなければならなかったのです。

それによってメシヤを牢屋に迎え入れるという、
み言のとおり、約束のとおりにするためであったのです。


では、その婦人のリーダーが失敗した点は何でしょうか。

それは、弁当の中に書き入れたメモに
「否定して出なさい」
「これを書いた人は誰か」
と書かれたことを神にお祈りしなかったことです。

神に祈るということは、
霊能者や指導者がつまずかないために、
一番重要なことです。

謙遜に、素直な心で神にお祈りしたとすれば、
神は必ず答えてくださったはずです。

それは、乗り越えなければならない個人の責任分担です。
これが非常に恐ろしいことなのです。
神が何年も何年も教えてくれたけれども、
それができないときには、全部が無になってしまうのです。


では、なぜその人がそれを
乗り越えなければならなかったのでしょうか。
なぜ神はそれを願ったのでしょうか。

神の啓示があれば、誰でもついて行くことができます。
しかし、その最後のお祈りによって、
今まで神が啓示したものは、
神がお告げしたということではなく、
自分で解決したという結果をもたらせたかったのです。

I 平壌開拓から興南解放
第一章 平壌開拓の日々
「大同保安署へ連行される」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


神様が4000年間準備された
すべての基盤が崩れてしまった。。。
それが、この場面でした。

許孝彬女史は、啓示を受けていましたが、
すべてメシヤがしてくださる、
監獄から救い出してくれる、と思っていました。

きっと拷問を受け、頑なになっていたので、
そのことを信じるあまり、
他のことを受け入れる余裕もなかったのかもしれません。

お父様の手紙を読んで、
手紙に書いてあるように、祈ったらよかったのですが、
それが「責任分担」であるとは
知る由もなかったことでしょう。

手紙は読んだと思われますが、
でも、看守に見つかってしまった、ということは、
元弼先生が言われるように、
祈りを捧げなかった、ということだと思います。

神様は100%すべてを準備するわけではなく、
人間の責任分担だけは干渉されずに、
信じて待っておられる。。。

そういった意味で、
私たちも責任を果たすことが重要であること、
また、いついかなるときも、
祈り尋ねていく習慣は必要であることを
教訓としていかなければならないと思うのです。




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