李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の「信仰と生活」の
み言より、「原罪と自犯罪」です。
☆
自分がサタンの息子だと聞いた時に、
私たちはどの程度胸が痛かったでしょうか。
「原理」によって自分の位置を発見したあとで、
自分自身が誤ったのを恥ずかしがるのと、
血統的問題を恥じるのと、相当差があるのです。
私たちは、自分が失敗したのは重要に思うのですが、
歴史的なものは、「だれだって同じではないか」
というような腹で、平気でいるのです。
だから、堕落論を話しても、
原罪を分かったあとの自分の苦しみを知るよりも、
自分自身が犯した罪を考えて苦しむ人のほうが多いのです。
☆
本当の良心的な人だったら、自分の原罪が分かった時の
自分の立場を、よほどの痛みをもって
苦しまなくてはいけないのに、堕落した人間は
原罪という問題に対して全く平気なのです。
だから、信仰しながら自犯罪を犯すことがあるのです。
そういう人は、原罪というものを恐ろしく思わないからです。
自犯罪を犯すということは、自分の身に
もう一度原罪の血統を流したという条件になってしまうのです。
☆
しかし、不幸にしてそれを犯してしまった人に
どういうふうに指導するかというと、
原理的に解決してしまわないのです。
もしそうすれば、「私はもう蕩減する道がない。
原罪もこんなに重大なのに、自分自身が
また罪を犯したから、もう滅びだ」と落胆してしまいます。
だから、率直に原理的に説明できないのです。
指導者はその人のために原理的なことを
知っていなくてはならないけれど、
自分が知っているとおり説明できないのです。
その人を救うのが目的だからです。
☆
その人のほうからすれば、質問しに来たのは、
自分の犯罪を許してほしいからであり、
「犯した以前の立場で付き合ってくれたらいいな」
という希望をもっているのです。
その人の、そういう動機を取り上げてやらなくてはなりません。
私はどうしたらいいのかということは、
自分の心が知っているのです。
知っていながらなぜ聞くのかというと、
「許してほしい、救ってほしい」という内面の願いがあるわけです。
だから、原理原則をもってしては説明できないのです。
☆
そういう場合には、「あなたの犯したのは、
あなたがしたのではない」と慰めてやるのです。
要するに、祖先から流れてきた原罪が現れただけであって、
罪を犯していない自分だって、
そういう人間だということを告白するのです。
「私の血も、分析してみれば結局同じだ」と言って慰めてあげながら、
その人に希望を与え、勇気を得させるような方向に向けて
説明する方法しかないのです。
☆
神様でも、神は愛だから私たちの罪を忘れてやるという約束で、
人間を呼ぶのですが、本当は絶対忘れられないのです。
最後には、全部蕩減しなければならないのです。
黙示録にあるように、「自分の着物を洗ったか」と検査されます。
それなのに、初め呼ぶ時には、
「忘れてやるから来い」と言って、人に希望を与えるのです。
☆
原理的にいえば、罪を犯さなくても、
その人の歴史的な条件を子女の立場から見れば、
原罪と認められる場合もあるのです。
例えば、結婚した人としない人とでは、差があるのです。
結婚した人は、旧約時代を蕩減する人物です。
婚約していて堕落論を聞いてから別れた人は、
新約時代を蕩減する人物として祝福されるのです。
また、全然異性との関係を結んだことのない人は、
これからの歴史をつくっていく主人となるのです。
そういう血統的な、血縁的な差があるのです。
いくら信仰が篤い人でも、どうしようもありません。
例えば、一度結婚した人は、旧約時代の子女という立場で、
霊人たちを代表して、旧約時代の歴史において
結婚した人の全部の責任をもって
蕩減しなくてはならない供え物として選ばれたのです。
☆
だから、自犯罪を犯した人は、
一つの時代をショートしてしまったのです。
成約時代の先祖となる望みが消えて、
新約時代のパラダイスにいる大勢の霊人の代わりに
選ばれた立場で、もっともっと蕩減を
負わなければならない条件を
自分自身がつくったことになるのです。
まっすぐな道に、自分自身で丘をつくってしまったのです。
1.牧会
原罪と自犯罪
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
原罪と自犯罪
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
堕落人間である私たちは、罪があるからこそ
原罪については、本当に響かない
罪がわからない私たちです。
そして、自犯罪についても、その背後に原罪の存在があります。
そのことを自覚しなければなりませんね。
以前紹介したことがあるのですが、
長年、東京拘置所の医務技官をしていた加賀乙彦氏が
「悪魔のささやき」という著書でこのように述べています。
「悪魔は果たして存在するのか? は、
私自身が数十年にわたって考え続けた疑問でもあります。
刑務所や拘置所で出会った犯罪者(死刑囚)や
病院で診療してきた患者さん(自殺生還者)と向き合い、
同時に自分自身の内面を覗き込みながら、
そしてまた聖書や文学に描かれた悪魔というものも手がかりにしながら、
私なりに出した結論は、やはり悪魔はいるだろうということです。
どんな姿をしているのか、肉体などなく霊的な存在なのか、
そういったことはわからないし、これからもわかり得ないでしょう。
しかしこれだけは断言できます。
少なくとも私たち人間の心の中には
悪魔的なものが確固として存在している、と。」
死刑囚との面会で、彼らが殺人をした時に、
自分ではない、何かが自分を動かしていた、
「悪魔がささやいたんです」
と告白する人が複数いる、というのです。
「出来心」とか、「魔が差す」というように、
サタン(悪魔)の存在を感じている人が多いといいます。
本当に恐ろしいことです。
そういう意味でも、堕落性に誘発されて、
自犯罪を起こさない生活、
天とともにある生活を心がける重要性を感じるのです。
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罪をすべて忘れてあげるから帰って来なさい 自犯罪は一時代を失う