2024年10月28日

単独行動はなし、いつも弟子たちと共に過ごされたお父様 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「先生の関心はいつも弟子に」です。


先生は説教でたくさんのみ言を語ってくださいますが、
その中で信仰生活のポイントをたくさん暗示されます。

また、先生がお一人で外に出たり、山に行ったりするところを、
私は今まで見たことがありません。
食堂(飲食店)へもお一人で行かれることはありません。

大変苦労した食口がいれば、そういう食口たちを連れて一緒に行くのです。
あるいは、み旨に活躍した人ばかりだけではなく、
その時にいた人と一緒に行くのです。
映画にもいつも一緒に行きます。

先生は日曜日の説教のほかに、和動会を通じて
いろいろなことを教えてくださいました。
説教の時間以外のみ言によっても、
豊かな霊的充実さを保つことができたのです。


先生は、短いみ言でも、私たち一人一人に
適確なみ言を下さいました。
それは、先生が私たち一人一人に対して非常に関心をもち、
私たちを理解しておられたからでした。

先生は、普通はそんなに語られず、私たちがお祈りしたり、
話すところをじっと眺めておられました。
ですから、私たちの一つの言葉によって
すべてを推し量るというのでした。

私に間違ったことがあっても、
その場ですぐに「間違っている」とはおっしゃいません。
一緒に出掛けたり、和動する中で私だけに分かるように、
平和なうちに教えてくださいました。

普通、私たちはその人を指して話しますから、
他の人に全部分かってしまうのです。
しかし、先生はそういうことはなさいません。

ほかの誰が聞いても、全然分からないのです。
本人だけがよく分かるように教えてくださるのです。
それも、「悪い」というような言い方では話されません。

それは「神のみ意がこうであった。
イエス様の心はこうであった。
先駆者の歩みがこうであった」とおっしゃることによって、
強く自分で反省するように教えてくださったのです。

 
私の例を一つ話してあげましょう。

夏のことでしたが、先生が小さな部屋で
新しいメンバーに対して一生懸命にみ言を語ってくださいました。

そこに私も一緒にいてみ言を受けました。
私は眠くはなかったのですけれど、だんだん眠くなりました。

そしてそのお客さんが帰った後、いつものとおり
先生は私と一緒に丘に登られました。
街を眺めながら瞑想いたしました。

それが終わってから、先生に連れられて
丘を下る途中で、少し休みました。

そこで先生は、静かに私に語り始められました。

「新しい人がみ言を聞いている時に、お前が眠ったらね、
それはその人に非常にすまないのですよ」と語り始められたのです。

何かしかられたのではなく、ただ「それはいけないよ」
と言われただけなのに、それを聞いていたら、
私も分からないうちに涙が出てやみませんでした。

もちろん人によって違いますけれども、
先生は常にそのように教えてくださいました。


先生は言葉で表されなくても、黙っている中に
たくさんのみ言を私に感じ取らせてくださいました。

秋になり、麦が実っている所を歩きますと、
「お前はああいう実った麦を見てどういう感じがする?」とか、
ある時は「お前、何か聞きたいことはないのか」と私に聞かれます。

時には、「私と永遠に、神様のみ旨のために働くの?」
と聞かれたこともあります。

このように先生は、個人個人に決心させたり、
私の考えも及ばないことを考えさせるために、
いろいろなヒントを与えてくださいました。

そういうことができたのは、私のために祈っていてくださり、
私が今まで言ったことを全部聞いてくださり、
その次に、私が毎月行ったり来たりしているときに、
どのように導いてあげようかと
常に関心をもって眺めておられたからでした。

いかにしたら神の心情が分かり、神のみ旨を
理解させることができるだろうか、という
変わらない深い心をもっておられるから、
そういうことができたのです。

I 平壌開拓から興南解放
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「先生の関心はいつも弟子に」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
一部編集、文責:ten1ko2


お父様と元弼先生とのやり取り。
本当に心暖まる場面です。
お父様は本当に親なんだな、
そのことを実感させられます。

この世の法律では、義と不義、
正しいこと、間違っていることで秤がかけられ、
法律に違反することによって、裁かれます。

しかし、間違っていることで罰を与えても
その人の心は変わらないかもしれません。

昨日、たまたまNHKの「プロフェッショナル」で、
元ヤクザで薬物と酒に溺れていた人が、
依存症回復支援をしている番組を見ました。

何度も何度も刑務所に入り、「もう人生だめだ」
と思ったときに、担当検事が刑務所ではなく、
依存症回復センターに行くようにしてくれ、
そこから人生が変わりました。

心から「許された」と思ったのでしょう。
今は、逆に依存症になっている人たちを治す立場になっています。

やはり、愛というものは、人を変えるのだな、
そのことを感じさせられました。

やはり、神様は、「原理の神」である以上に
「愛の神」であると思うのです。



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posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする