金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言。
今回は、「先生の関心はいつも弟子に」です。
☆
先生は説教でたくさんのみ言を語ってくださいますが、
その中で信仰生活のポイントをたくさん暗示されます。
また、先生がお一人で外に出たり、山に行ったりするところを、
私は今まで見たことがありません。
食堂(飲食店)へもお一人で行かれることはありません。
大変苦労した食口がいれば、そういう食口たちを連れて一緒に行くのです。
あるいは、み旨に活躍した人ばかりだけではなく、
その時にいた人と一緒に行くのです。
映画にもいつも一緒に行きます。
先生は日曜日の説教のほかに、和動会を通じて
いろいろなことを教えてくださいました。
説教の時間以外のみ言によっても、
豊かな霊的充実さを保つことができたのです。
☆
先生は、短いみ言でも、私たち一人一人に
適確なみ言を下さいました。
それは、先生が私たち一人一人に対して非常に関心をもち、
私たちを理解しておられたからでした。
先生は、普通はそんなに語られず、私たちがお祈りしたり、
話すところをじっと眺めておられました。
ですから、私たちの一つの言葉によって
すべてを推し量るというのでした。
私に間違ったことがあっても、
その場ですぐに「間違っている」とはおっしゃいません。
一緒に出掛けたり、和動する中で私だけに分かるように、
平和なうちに教えてくださいました。
普通、私たちはその人を指して話しますから、
他の人に全部分かってしまうのです。
しかし、先生はそういうことはなさいません。
ほかの誰が聞いても、全然分からないのです。
本人だけがよく分かるように教えてくださるのです。
それも、「悪い」というような言い方では話されません。
それは「神のみ意がこうであった。
イエス様の心はこうであった。
先駆者の歩みがこうであった」とおっしゃることによって、
強く自分で反省するように教えてくださったのです。
☆
私の例を一つ話してあげましょう。
夏のことでしたが、先生が小さな部屋で
新しいメンバーに対して一生懸命にみ言を語ってくださいました。
そこに私も一緒にいてみ言を受けました。
私は眠くはなかったのですけれど、だんだん眠くなりました。
そしてそのお客さんが帰った後、いつものとおり
先生は私と一緒に丘に登られました。
街を眺めながら瞑想いたしました。
それが終わってから、先生に連れられて
丘を下る途中で、少し休みました。
そこで先生は、静かに私に語り始められました。
「新しい人がみ言を聞いている時に、お前が眠ったらね、
それはその人に非常にすまないのですよ」と語り始められたのです。
何かしかられたのではなく、ただ「それはいけないよ」
と言われただけなのに、それを聞いていたら、
私も分からないうちに涙が出てやみませんでした。
もちろん人によって違いますけれども、
先生は常にそのように教えてくださいました。
☆
先生は言葉で表されなくても、黙っている中に
たくさんのみ言を私に感じ取らせてくださいました。
秋になり、麦が実っている所を歩きますと、
「お前はああいう実った麦を見てどういう感じがする?」とか、
ある時は「お前、何か聞きたいことはないのか」と私に聞かれます。
時には、「私と永遠に、神様のみ旨のために働くの?」
と聞かれたこともあります。
このように先生は、個人個人に決心させたり、
私の考えも及ばないことを考えさせるために、
いろいろなヒントを与えてくださいました。
そういうことができたのは、私のために祈っていてくださり、
私が今まで言ったことを全部聞いてくださり、
その次に、私が毎月行ったり来たりしているときに、
どのように導いてあげようかと
常に関心をもって眺めておられたからでした。
いかにしたら神の心情が分かり、神のみ旨を
理解させることができるだろうか、という
変わらない深い心をもっておられるから、
そういうことができたのです。
I 平壌開拓から興南解放
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「先生の関心はいつも弟子に」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
第二章 いつも弟子に関心をもたれる先生
「先生の関心はいつも弟子に」
信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題
☆
一部編集、文責:ten1ko2
お父様と元弼先生とのやり取り。
本当に心暖まる場面です。
お父様は本当に親なんだな、
そのことを実感させられます。
この世の法律では、義と不義、
正しいこと、間違っていることで秤がかけられ、
法律に違反することによって、裁かれます。
しかし、間違っていることで罰を与えても
その人の心は変わらないかもしれません。
昨日、たまたまNHKの「プロフェッショナル」で、
元ヤクザで薬物と酒に溺れていた人が、
依存症回復支援をしている番組を見ました。
何度も何度も刑務所に入り、「もう人生だめだ」
と思ったときに、担当検事が刑務所ではなく、
依存症回復センターに行くようにしてくれ、
そこから人生が変わりました。
心から「許された」と思ったのでしょう。
今は、逆に依存症になっている人たちを治す立場になっています。
やはり、愛というものは、人を変えるのだな、
そのことを感じさせられました。
やはり、神様は、「原理の神」である以上に
「愛の神」であると思うのです。
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