2024年12月28日

興南で主を待っていた人がいた 「準備された死刑囚」 《金元弼先生のベストアンサー》



220118.jpg


金元弼(ウォンピル)先生のみ言。

文鮮明先生が、死の収容所に送られる、
そういう状態でも神を慰めていくことができたのは、
興南に、自分を待っている人がいると、
天に教えられたからでした。

そんな天から「準備された死刑囚」とは──


平壌の刑務所の中には、一人の死刑囚がいました。

この人は第二次世界大戦の時に、韓国人ですけれども
日本の陸軍士官学校の砲兵科を卒業して、
日本の軍人として出征した人です。

大けがをして生きて返ってきた将校(大尉)であり、
北の共産国家が成り立つと、人民軍に入って中佐となった人です。

人民軍に服務していた時に、北の情報を年一回ずつ
南に流したという証拠を示されて、
死刑の宣告を受けたのです。

死刑囚は別に収監されますが、彼は
自分で自分の命を絶とうとしたのが知れて、
手錠をかけられて死の日を待っていました。

その人は、金元徳(ウォンドク)といいます。

 
ところが、その青年にひと言の言葉が聞こえました。
それは彼の名前でした。
意識して見回しても、誰もいません。

2回目の声がまた聞こえました。
しかし見付けることができませんでした。
3度目の名前を呼ぶ声がして
初めて「はい」と答えました。

そしたら、その声は白いおじいさんの声でしたが、
そのおじいさんは彼に、
「お前は絶対に死なないだろう。
お前は南から上がってくる青年を
お迎えする準備をしなさい」とお告げを残して去りました。

 
それから幾日かたって、外から
自分の番号を呼ぶ声が聞こえました。

しかし彼は、幻の中の出来事は全部忘れていて、
死刑の執行がきたのだと思い、
恐る恐る立ち上がって出たわけです。

「これで死ぬ。死刑場へ行く」と思ったのでした。

ところが事情が変わって、
彼の予想もしないことが起こったのです。


彼は人民軍司令官の厚い信頼を得ていましたが、
その司令官がモスクワでの軍事会議に行っている間に、
彼の裁判があって死刑の判決が出たのでした。

司令官が帰ってみると、自分の一番信頼する部下が
死刑囚となっていたのです。

能力のある部下でしたから、死刑にだけは
しないようにということになりました。

そこで最高責任者に、「この人は砲術には貴重な人で、
うまく使ったならば、本当に有望な人物である」と言って、
直接自分が身分を保証するという条件でやっと死刑を免じてもらい、
4年8か月の刑を言い渡されるようになりました。


彼はそういうことを通じて、
幻でのおじいさんのお告げを思い出したのです。
「死なない」と言われたごとく、死を免れたのでした。

大部分の人は、大きな恵みに会うと、
次にやらなければいけないことをおろそかにしがちです。

彼も1か月も過ぎると
先生を迎える準備を全部忘れていたのでした。

 
そうしていたある日、白いおじいさんが現れて、
彼の名を激しく呼びました。

「金!私が言ったことをお前は忘れたのか」
と言ってしかりました。

それからこの人は19日間、体が痛くて
どうにもこうにもできないような苦痛を受けました。


その人の父親は、自分の愛する子供が
死刑を宣告されたことを知ってから、
心を痛めて病気になってしまいました。
その上、自動車にひかれて死んでしまいました。

すると今度は幻の中にお父さんが現れました。

「おじいさんが話してくれた青年の所に、
私が導いてあげよう。私の後についてきなさい」
と言われて、先生のおられる所につれて行かれました。

そこは宮殿でしたが、その階段を
最初は三段ずつ上がって礼をし、
その次は一段ずつ上がって礼をし、
やっと輝かしい玉座のある所までたどり着きました。

そこで王座におられる青年に大きく三拝敬礼を行いました。

あまりにも厳かな所だったので、
顔を上げることができないでいたところ、
お父さんに言われて、
王座に座っているお方の顔を上げて見ました。

するとそこは金のように光がまばゆく光り輝いていました。
あまりにもまばゆいので、
見つめることができず、顔を下げていました。

お父さんが「帰りましょう」と言うので、
今度はお父さんを従えて階段を下りてきました。

そして最後の階段を降りた瞬間に、お父さんはいなくなり、
それから自分の意識が戻りました。
そして幻の中の出来事であったと知りました。


(文鮮明)先生は5年の判決を受けて、その青年のいる
同じ部屋に入るようになりました。

その部屋には、20名近い人が収容されていたのでした。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「準備された死刑囚」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


金元徳氏の証しは、金元弼先生の
このお話で初めて知りました。

ほかの文献によると、
真のお父様(文鮮明先生)と金元弼先生と一緒に
南下された朴正華氏という方がいましたが、
その方の前に、総班長をしていたということです。

その人物は、幻に白いおじいさんと
また実のお父さんが現れて、
真のお父様に従うように予言されたのでした。

神様が準備されていた人物であることの、
証明のような証しですね。

お父様は、絶望のような環境なのに、
「神様がどんな人を準備しているのか、待ち遠しかった」
そんな心持ちだったといいます。

私たちも限界の状況の時ほど、
希望を持ち続けていきたいと思います。




にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

posted by ten1ko2 at 10:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月27日

今年の罪、全て贖います?! レ・ミゼラブル(惨めな人たち)と言われても・・・ 《橘先生》



241227.jpg


橘幸世さんによるエッセーより、
「◯◯の罪の償い」です。


『世界経典U』では、テーマごとに
もろもろの経典などから引用がなされています。

「償還」の項には以下の一節がありました。

「償還は、損害に正確に相応する値段でなくても、誤った人が損害を受けた人に自ら補償するときに、最も効果的である。
ベルサイユ条約により第1次世界大戦が終わったのち、ドイツがフランスとイギリスに提供するよう強要された戦争賠償金と、第2次世界大戦後、ドイツがユダヤ人とその他のナチ犠牲者に提供した償還とを比較してみよ。
ドイツに戦争賠償金が強要された前者の場合、その戦争賠償金は、ドイツ人の大きな怒りを引き起こし、ヒトラーの登場に直接連結する、復讐に対する要求に油を注ぐ結果となった。
ナチの犯罪に対してドイツ人が本当に悔い改めた後者の場合、その償還は、ドイツと以前の怨讐国家の間に善の意志を広げるのに役立った」
(1461ページ)

償う側が償いの心をもってしなければ、
する側受ける側双方のためにならないという、
民族・国家レベルの事例です。


ギプス生活で動きのままならない私は、
15年前の入院時に読んだ『レ・ミゼラブル』を
引っ張り出しました(出してもらいました)。

人間心理の深層に食い込んだ内容に
改めて感銘を受けています。


主人公ジャン・ヴァルジャンが追手から逃れて
身を隠した女子修道院。

そこでは、物質面で見れば牢獄よりも過酷な環境下で、
女性たち(貴族出身も珍しくない)が神に仕えていました。

牢獄と修道院双方を、身を持って体験した
ジャンの目を通して、著者ユゴーはその対比を描いています

(彼は修道院を全面的に肯定しているわけでは
ありませんが、そこでささげられている
真摯〈しんし〉な精神には敬意を抱いています)。


牢獄の囚人は自ら犯した罪を償うためにそこにいますが、
非人道的な扱いを受けることで、
多くは恨みつらみを募らせます。

一方修道女たちは、そこから出ることが
できない点では囚人と同じですが、
自らの意志でそこにいて、日々苦行の生活を送り、
感謝の歌を歌い、償いの祈りをささげます。

何を償うのか。

自分が犯したのではない、他者が犯した罪、
地上で犯される全ての悪を償うべく、
祈っているというのです。

胸に来るものがありました。

 
先祖が犯した罪を蕩減復帰する、
というのは分かります。

自分の父母や祖父母・親族を通して、
ある程度の実感を持って推察できますので。

けれど、自分の知らない時代に国家が犯した罪を
責められると、正直私の中には、
素直に受け止めきれないものがありました。

修道女たちは、イエス様がそうされたように、
自分が犯したのではない、親族でもない、
見も知らぬ他人が犯した罪を償おうとしていたのです。

2000年間キリスト教が積み重ねてきたものの
一端に触れ、自分の器の小ささ、
主と仰ぐかたへの信仰の不足さを知らされました。

そのかたもまた、他者の罪、
人類の罪を自ら償おうとしてこられたのに…。

天一国時代、社会に関わって建設的な努力・
活動をしようという中にあっても、
(償い方の是非は横に置いて)新約時代の
尊い精神は、学び継承していかなければと思いました。

再編集 文責:ten1ko2
続・夫婦愛を育む 8
◯◯の罪の償い
ナビゲーター:橘 幸世
https://www.kogensha.jp/news_app/detail.php?id=20136
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


『レ・ミゼラブル』は、邦訳が『ああ無情』で知られますが、
意味としてしては、「惨めな人々」。
「The 悲惨」というような感じでしょうか。

極貧状態の人々、社会の底辺にある人々を
描きつつ、主人公が変わっていくきっかけとして、
司教の愛に触れたことが大きかったと記憶しています。

橘先生は、そこで描かれる修道女たちの信仰に
感銘を受けたとのことですが、
実際の修道女たちの生きざまも、
本当に素晴らしいと思います。

代表的な人物は、マザーテレサでしょうか。
とても多く学ぶところがあります。

イエス様に侍って(仕えて)信仰するクリスチャン。
私たちは、実体の真の父母様に侍る者として、
もっと深い信仰を持つべきでしょうね。

『レ・ミゼラブル』
改めて読み返してみたいと思いました。


最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散は、歓迎いたしますが、
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名と記事URLを記載して頂くようにお願いいたします。
(このブログ記事に飛べるようにして紹介してください)

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 



最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散は、歓迎いたしますが、
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名と記事URLを記載して頂くようにお願いいたします。
(このブログ記事に飛べるようにして紹介してください)

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 

2024年12月26日

苦労してもいじめられても、元手を取る生き方 神のポジション(位置) 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



210923-John-the-Baptist.jpg


李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生
「神の立場から誠意を尽くす」です。

 
蕩減復帰は、今は苦労しても、マイナスになっても、
いつかは利益が戻ってくるんだという自信をもって、
苦労するとか、迫害を受けるとか、
損するとか、いじめられるとかするのです。

何かもうけがあるという原則的な立場に立ってしなくては、
結局、結果的には人に笑われたり、
人に対して恥ずかしくなってしまうのです。

そういう面を、信仰人物たちから
学ばなくてはならないのです。

 
洗礼ヨハネは、相当蕩減生活をして
民族的な立場の人物になっていたのですが、
イエス様と付き合った時には、
人間的に付き合ったのです。

どうして心情的に付き合わないで、
人間的に比較したのでしょうか。

イエス様の立場、イエス様の家庭、イエス様のものを、
結果的に見て、付き合ったのです。

歴史的なこの人間の過去を知らないのです。
神から見た未来に、どういう使い道のある人か知らないのです。

表れた瞬間の者を、結果的に見て、付き合ったものだから、
洗礼ヨハネの立場からは、授受ができなかったのです。
自分の考えで、イエス様を見たのです。

イエス様を見た時の内的態度が間違っていたのです。
人間的批判をしたのです。

私たちも、そういう洗礼ヨハネの考え方、
洗礼ヨハネの見方があって、それを行うと、
結局霊的に乏しくなってしまうのです。

 
大先生(文鮮明師)も、何をやっても、それをやるんだという、
その結果を目標に誠意を尽くすのです。

家を造る時も、私たちに相当説教されたのです。

「家を建てるというので、
私はただこの仕事をやるんだ」と、
「28日間でやった」とこう思うけれど、
大先生はこれをやるときには、歴史的に何か因縁があるし、
この期間内に完成しなくてはならない歴史的な内容に、
誠意を尽くされるのです。

この建物はみすぼらしいけれども、
先生が必要と思うこの期間に誠意を尽くすのですが、
それは何のためにやるかというと、
歴史的な因縁があって、そしてまた、
これによる民族的な目的があって誠意を尽くすのです。

これは一つの祭物です。

それのために愛するのではなく、
この物に対しての愛ではなく、
この物を通じて、その先の目的のために誠意を尽くすのです。

先生のやり方はいつもそうなのです。


私たちは今、「こういうふうにしないで、
ああしましょう、こうしましょう」と、
いろいろな意見があって、先生と合わないのです。

先生はそうする目的が今にあるのではなく、
未来にあるのです。

だから今は私たちに合わないけれど、
誠意を尽くす内容が違うのだから、
これはもう燃えてしまってもいいというのです。

これに誠意を尽くすのではなく、これを祭物として、
目的をまだ見ているのです。
そういうやり方を、いつもやっているのです。

 
人を愛する時も、この人間を愛するのではないのです。

36家庭を見て、
「君のために祝福したのではない」と言われるのです。

「君たちが今やめても、離れても、どうでも、
私は君たちに尽くす責任は済んだ」
と言われるのです。

「今君たちが離れても、神に対しての私のやる責任には
誠意を尽くしたのだから、
君たち以上の人を引っ張ってくるようになっている。
君たちのために、祝福したのではない。
祝福は、君たちの、その結果のものではない」と。

血統的な背後もあるし、それから神は、こういう人間を
神の前に祭物として使うのです。

先生自身の情の内容が、永遠に
どういうものであったかという、そこにあるのです。

 
私たちはただ、「あの人間はああだ」と、
現れたそのものだけを見て、
それに比較して誠意を尽くそうとするのです。

だから私たちは、その人によって打撃も受けるのです。

環境によって打撃を受けるのは、その環境だけに
自分が関心をもったからです。
そういう見方は、復帰摂理から見て、蕩減精神が違うのです。

それで私たちが、マイナスになるのは、
ただそのもの、現在というそのものに、
主管されやすい考え方でやっているからです。
そこに相当な損があるのです。

原理的に解釈すれば、ここにいる一人は、
その一人だけではないのです。

歴史的な内容を連続しているし、
未来的な願いをもっている者だから、
神から見た時のこの存在物は、
私たちの見たものと全然違うのです。

神の立場で私たちが、この「循環」というものを
取り扱わないものだから、
結局、霊的には乏しくなってしまうのです。
それはピントが合わないからです。

 
そういう面で、私たちは一生涯の生活を、過ぎ去ったのちには、
悔い改めなくてはならないことが多くなってくるのです。

だから、神の立場からの思いでいつも
誠意を尽くせば、霊的に相当敏感になります。

そのもの自体に主管されないで、
現在というものに主管されないで、
現在というものを歴史的に、あるいは永遠的に、
観察の仕方をよく知ったなら、霊的に敏感になるのです。

なぜかというと、霊的に実体的相対関係が結ばれるから、
自分という立場が神の立場になってしまうので、
自分も主管されるのです。
考え方によって、そうなるのです。

そういう面が信仰生活で、一番貴重なのです。
それを連続していけば、とても成長します。

1.牧会
「神の立場から誠意を尽くす」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


目に見える結果的現象世界だけを見つめるのではなく、
結果が現れる過程が重要であり、
そういう観点から、物事を見つめていく必要がある
ということなのではないか、と思います。

苦労のない人生はないでしょうし、
とりわけ信仰生活は、自分の思いでそれを見つめていたら
心が枯れてきてしまいます。

今見える現実はその通りなのですが、
その過程とか、歴史的なものとか、
立体的に物事をとらえることが大切だとは思っても、
なかなかその深い意味はわからないものです。

それでも、何ごとにつけても、神の観点に立ち、
父母なる神の立場で見るならば、
人に対しても愛をもって対せるし、
感謝で乗り越えられるのではないでしょうか。

蕩減復帰というのは、
天のみ意にかなったものならば
必ず元手を取れるとのこと。

神様に対しての精誠、
意識して、歩んでいきたいです。


最後までお読みいただき ありがとうございました!
ポチッ!がまだの方はお願いしますm(__)m
ポチッは1日1回有効で、1週間の合計で
ランキングの順位が決まります。
ポチッとすると、現在の順位が出てきます ↓

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ 当ブログ記事の転載、拡散は、歓迎いたしますが、
その際は、リンクを貼っていただくか
当ブログ名と記事URLを記載して頂くようにお願いいたします。
(このブログ記事に飛べるようにして紹介してください)

なお、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、無断転載
に関しては、固くお断りいたします。

※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。 


posted by ten1ko2 at 10:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする