2024年12月25日

石や土も神と人の愛情を求めている?! 中流・下流層(地獄)の鉱物は 《李相軒先生の霊界メッセージ》



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李相軒(イ・サンホン)先生の
「霊界の実相と地上生活」より、
いわゆる中間霊界と、地獄の
鉱物に関するメッセージです。

中流層の鉱物世界

森羅万象の、存在するすべての創造物は、
愛の神様が人間のために造っておいた被造物です。

したがってすべての被造物は、
上流層のように神様が共にあってこそ、
彼ら自身の本分をすべて
発揮することができるのです。

それゆえ鉱物自体も神様と共に
生きることを願っています。

ここ中流層の鉱物の姿は、簡単に話せば
地上のそれと似ています。

人間は喜怒哀楽の大部分を、
自然を通して経験することが多いのです。

ところで、人間が美しい宝石や盆石など、
鉱物を見て楽しむために手に入れたとき、
人間の欲望はそれで達成されるかもしれませんが、
真の主人に出会って喜び楽しみたい
万物や鉱物自体の欲望は達成されることはありません。

人間は一定の環境圏にある鉱物の
外的な形だけを見て満足していますが、
様々な鉱物は一定の環境圏において
造られたままの姿で存在するだけです。

それゆえ、鉱物世界はその本質的な
深い内容を発揮することができないでいます。

鉱物におけるところの目や口や鼻は、
形としては存在しませんが、それらは
人間と共に交流することを願っています。

また私たち人間は、鉱物世界にまつわる
神様の恨(ハン)までも解かなければなりません。

(1999年12月5日)

下流層の鉱物世界

山も野原も海も転がる石も、神様と人間が
共にあってこそ光ることができ、自らの姿が整います。

しかし下流層では、人間の生きること自体が
大変で困難なため、鉱物世界も暗黒と同じです。

野原は荒廃と化して捨てられた地と似ており、
人跡の絶えた山の隅にはやせこけた木が並んでいます。

こちらには一定の道がなく、周囲は常に
陰鬱(いんうつ)としていてぞっとします。

海は今にでも嵐が吹き荒れそうな雰囲気で、
山のような波が常に押し寄せています。

道にはごつごつした石ころがあちこちに転がり、
人は歩くことができず、
その場ごとに避けていくしかありません。


ところで、このような環境で
人は暮らさなければならないのでしょうか。

ここの人々はお互いに嫌っています。
彼らには、すべてが面倒くさいのです。
生きること自体が面倒で、彼らには
波と野原の姿、そのほかは何も見えません。

このような環境に置かれている鉱物世界ですが、
鉱物たちは人間を慕い求めながら、
主人が現れて触ってくれることをずーっと待っています。

鉱物世界と神様の心情

鉱物世界の上流層、中流層、下流層には、
神様からつくられた大切な子女たちが暮らしています。

神様の心はどこにとどまるでしょうか。
病んだ子には痛ましさを感じて、
より愛の手を差し伸べたくなるものです。

このような心情は、肉身の父母も
神様もほとんど同じです。

主人を待つことに疲れ果てて、怒り狂った波のように
憂さ晴らしをする海や、荒廃化した広い野原は、
主人が現れて育てて整えてあげれば、
本然の姿を現すことができます。

転げ回っている岩も本来の場所に戻してあげれば、
本然の姿を現すことができるのです。

より下流の層に向けられる神様の心情を、
私たちは常に察してみなければなりません。

(1999年12月5日)
李相軒(1914〜1997)(光言社刊
『霊界の実相と地上生活』より)
第二部 天上天下の救世主・真の父母
第二章 被造世界(宇宙論)
三 鉱物の世界

霊界の実相と地上生活(48)
中流層の鉱物世界
(Blessed Lifeより)
再編集 文責:ten1ko2


神道においては、
「八百万の神」と言われるように、
鉱物も神様、という概念があります。

万物を尊く思う、という観点からすると、
一理あるような気もします。

お父様は、ご自身が座っておられた石が、
話しかけられたと言われます。

万物を愛しておられたお父様ならではの
エピソードだと思います。

私たちも、万物を愛する心情を
持つべき必要があるのだ、と思います。



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posted by ten1ko2 at 10:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 霊界 霊人と共に歩む生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年12月24日

私は「信教2世」です! 学校で起こった殺人事件、「苦しかった」と言えたとき  



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新潟の大教会長(2世)が、
シンポジウムで語られたメッセージ
「霊性の地・新潟から信教の自由を叫ぶ」
を紹介します。

私の立場は「信教2世」

安倍晋三元首相の銃撃事件から二年がたちました。
この間、各メディアは、宗教二世問題を
社会問題として取り上げてきました。

「宗教二世」という言葉は、家庭連合を
バッシングするための“キーワード”
としても使われてきました。

「親が高額献金を捧げることを通して、
不遇な家庭環境の中で育ってきた」

「親から信仰を強要されて宗教的な虐待を受けてきた」
などと、さまざまな声が飛び交ってきたのです。


宗教二世、きょうは、この言葉を使わないでおきます。
私の立場は「信教二世」です。

それは、親から信仰を継承したことを喜びとし、
自らの意思で、この道、信仰を育む道を
喜んで歩む者を指します。

家庭運合に信教二世は、たくさんいます。

■教会の教えと現実のギャップ

きょうは信二世の一人として、
きょうは信教二世の一人として、
皆様に心を開き、私の人生の一端を
お伝えしたいと思います。

私が親からどのようにして信仰を継承し、
育んできたのか、その人生の
一ページを皆様と分かち合いたいのです。

中高生のとき、反抗期真っ盛りだった私は、
親の信仰にあらがうように反発していました。

「宗教」という言葉が嫌いでした。
神の存在は信じていませんでした。
親の存在を、うっとうしく感じていました。

そんな私の身の周りで数々の出来事がありました。

友人たちがいじめを受ける。
自殺する者がいる。
酒やたばこに心が流れ、
現実から逃避しようとしている......。


そして、集団暴行事件が起こりました。
私が中学2年のときです。

1学年上の先輩が、高校生たちに呼び出されて
深夜のグラウンドで集団暴行を受け、
病院に搬送されました。
先輩はそのまま命を落としました。

つまり、私の学校で殺人事件が起きたのです。

亡くなった先輩は、私がよく知る、近しい先輩でした。
身近な人が命を落としていくという現実を
目の当たりにしたときに、
私の心の中に陰りが生じました。


教会に行けば貴い教えを聞くことができます。

神は存在している。
人のために生きることは素晴らしい。
あなたたちは神様の子供である・・・・・・?

もう、たくさん聞きました。
しかし、目の前にあるのは悲惨な現実。
教会で聞く教えと現実の間に
あまりにも大きなギャップがありました。

私は苦しかったです。
心のうちを誰に打ち明けて相談すればいいか
分かりませんでした。

心の苦しさを自らの中で押し殺しながら
必死に耐える日々を過ごしたのです。


大学に進むとき、私は一つの決心をしました。

“親と縁を切り、信仰を捨てよう” 

信仰を持っていても目の前の現実は変わらない。
むしろ信仰を持つことで制約されることが多々ある。
親から、正論のようなこと、教えを押しつけられる。

そんなうんざりする日々を思い返しながら、
私は、"このまま親と縁を切り、信仰も全て捨てて
自分なりの人生を歩んでいこう”という思いに
身を任せていました。


そんな私に、人生の転機が訪れることになります。

大学に進んだとき、同じ大学に通う
教会の先輩との出会いがありました。

お兄さん(先輩)は私に、「話をしよう。
権龍(けんりゅう)の人生を聞かせてほしい」
と語りかけました。

私は自らの人生について語り始めました。
身の周りで亡くなった人がいる。
私も非行に走ってきた。
親をたくさん裏切ってきた。

苦しいことがいっぱいあった。
でも、誰も相談に乗ってくれる人はいなかった。

心を打ち明け、とうとうと話していると、
目の前で一滴三滴としずくが落ちました。


お兄さんが泣いていたのです。

「苦しかったね。つらかったね。
よく耐えてきたね・・・・・・」
と言いながら涙を流していました。

私は驚きました。
“何で泣いているんだろう。他人なのに"
と私はお兄さんに
「何で泣いているんですか?」と尋ねました。

すると、「権龍は弟じゃないか。
弟が苦しんでいたら、その思いを
分かち合うのが兄弟じゃないか」と返ってきました。

お兄さんの温かい心に触れて、
凍りついていた私の心に
わずかに愛が届く感覚がありました。


お兄さんは、このように語りました。

「自分も、なんちゃって二世だったよ。
信仰を持ってるふりをしてきた」

「自分も、信仰をやめようと思ってきた。
でも権龍、神様っているんだよ。
神様に出会えば、人生変わるんだよ」

「信仰をやめるかやめないかは置いておいて、
神様がいるかどうかだけは確かめてみよう」

■「神様、苦しかったです」

そんな先輩の言葉に背中を押され、
私は、教会で主催された研修会に参加することになりました。

それは、教義を学びながら、
さまざまな実践をして自分の心を育み、
っていく場でした。

私は、この研修会でつかむものがなければ、
全て捨てて本当に親と縁を切ろう、
こんな思いで参加しました。

実は、信仰を捨てよう、親と縁を切ろう
と思いながら、受験勉強を一生懸命
頑張っていたのは、この会場の五階でした。

天の計らいなのか、きょうはその六階で、
信教の自由を守るための講演をしています。


私には、ずっと疑問に思ってきたことがありました。

“親はなぜ、メディアからバッシングされ、
ネットを開けば誹謗中傷の中にある、
この統一教会の信仰を持っているのだろうか。

親は何か、間違ってきたんじゃないか。
神様なんて本当にいるのか私は、
その答えを研修会で必死に求めてみました。


山に登り、頂上でお祈りをするという
チャレンジがありました。

そのとき、司会が「人生を振り返りながら
祈ってみてください」と言いました。

私は、人生を振り返りたくなかったです。
苦しいことや思い出したくないことが
いっぱいありました。

その登山で、私は神様に出会うこととなりました。

人生を振り返り、手を合わせて祈ろうとしたとき、
私の口から最初に出てきた言葉は、
「神様、苦しかったです」でした。

私はそれまで、自分が苦しかった
ということを認めずに生きてきました。

必死で心にふたをし、
感情を表に出さないようにしてきました。

それが、ありのままの思いを
神様に伝えようとして出てきた言葉は、
「神機、苦しかったです」だったのです。

その一言を言った瞬間、目から大粒の涙があふれ、
滝のように流れました。

信教の自由と人権を守るシンポジウム 新潟県民集会(7.20)
影山権龍 孝情礼拝
「霊性の地・新潟から信教の自由を叫ぶ」
世界家庭11月号
再編集 文責:ten1ko2


生まれてから、二世という立場で
最初から行くべき道を与えられる、というのは、
(うちの子供もそうですが)宿命を受け入れられればいいですが、
実際には、簡単ではない気がします。

この大教会長も、様々な葛藤の中にありましたが、
それを乗り越えることができたのは、

兄と慕う教会の先輩の一言でした。

この時、大学生の大教会長を
立ち上がらせるきっかけになった、
この一人の兄弟の姿に、
驚きと感動を覚えます。

続きます。



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2024年12月23日

神様がこれまで、サタンを倒すことができなかった理由 《史吉子先生》



231220.jpg
清平☆


史吉子(サ キルジャ)先生の
「原理に関するみ言の証」より、
『メシヤの能力と責任 』を3回に分けて紹介します。

メシヤの能力と責任

サタンの讒訴を誰が断ち切ってくれ、
誰が阻んでくれるのか?

これは神様が阻むことができません。
どうして、そうなのでしょうか?

サタンが誰と結託したかと言えば、
人間と結託したからです。

それで、人間の中でメシヤが
サタンの正体を全て明らかにして、
むしろ、「お前、 これこれの罪を犯した
サタンではないか?」と言わければなりません。

そうすれば、サタンはどうすることもできなくなります。
これがメシヤの能力であり、責任です。


サタンも神様の愛が恋しくてエバを犯したし、
自分を中心として神様の愛を
もっと受けたくて堕落しましたが、
ルーシェルも自分がやらかした
6千年の罪悪歴史を嫌っているのです。

サタンも自分がしでかしたことが、
そんなにも大変なことであったと知っていたでしょうか?

最初は、わからなかったのです。
実はサタンであるルーシェルも、
昔の神様の忠実な僕の立場に帰りたい思いがあるのです。


それでは、誰がサタンを
本来の場所に帰すことができるのか?
それはメシヤにしかできないのです。

近頃のお父様は、「私は神様もできない
役割を果たした!」とおっしゃいます。
なぜならば、サタンの讒訴を断ち切って、
神様を解放させてあげたからです。

そしてお父様は、
「あなたたちがどんなに原理を勉強しても、
原理がよくわからないだろう。
本当に原理をよくわかる存在は、三人しかいない。
神様とメシヤとサタンだ」とおっしゃいました。


しかし、サタンも人間が長成期完成級まで
上がった時に堕落させたので、
長成期完成級以上はわかりません。

私は、そのみ言を聞いて安心しました。
なぜならば、 私たちが原理講義をどんなにしても、
原理が完全にわからないからです。

それだから、原理は原理講論そのままを
伝えなければなりません。
お父様は原理講義をする時、
自分の言葉を交ぜるなと言われました。


サタンは神様が自分を憎むことができないことを
知っているので、メシヤにも、

「メシヤよ! 神様は私を憎むことができません。
だから、あなたがメシヤなら私を憎んではいけません。

もしあなたが神様の息子であり、
神様の代身者として地上に来られたのなら、
私が本然の立場に帰って来ることを
神様がいつも願うように、あなたも

私が本然の立場に帰って来ることを願うべきです。
そうしなければ、 私の帰る道が無いじゃないですか?
だから、 私を憎むことができません」

と言いながら、徹底的に食い下がるのです。


これに関するお父様のみ言が、
『真の父母様の生涯路程』第7巻 340ページに出ています。

「神様が今までサタンを屈服させることが
できなかった原因が、どこにあるか?

そして、人類が今までサタンを
屈服させることができなかった原因がどこにあるか?
ただ一つ、サタンが主張するのです。

『私は堕落したとはいえども、
本然の原則的な基準で父母の心情から見たなら、
神様が私を愛するようになっており、
神様の息子が私を愛して初めて、
天国に行くようになっているのが
原理原則ではないですか?』と言うのです。
このように出れば神様は手も足も出ないのです」



「天国に入ることができる資格者になり、
完成した人間の位置に上がろうとするならば、
私(サタン)を愛したと言う条件を
立てなければなりません。

そうでなくては、完成の位置に上がる道が
無いのだ」と主張する
サタンの言葉に引っ掛かっているのです。

史吉子/ 著「原理に関するみ言の証」
再編集 文責:ten1ko2


「あなたたちがどんなに原理を勉強しても、
原理がよくわからないだろう。
本当に原理をよくわかる存在は、三人しかいない。
神様とメシヤとサタンだ」
このお父様のみ言は、衝撃的ですね。。。

サタンの正体、その存在を知るがゆえに、
サタン屈服の道を歩まれ、
恩讐を愛する道を開拓された真の父母様。

その歩みに改めて感謝申し上げます。


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