2024年12月19日

田中会長がブレない理由 水底に投げた石・・感化の波紋を起こす人に  



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田中富弘会長のメッセージ
「神の子女としてふさわしい実体になろう」
続きです。

人々の心に感化を与える波紋を起こす私たちになりましょう

1984年7月20日、真のお父様は、
米国のダンベリー刑務所に収監されました。

金孝律先生がダンベリー刑務所でお父様と面会し、
多くの牧師が同苦の会を立ち上げ、
信教の自由のために闘っていることをご報告すると、
お父様はこのような内容を語られたといいます。

「深い川に石を投げると、
 石は瞬く間に沈んで見えなくなるが、
 水面の波紋は広がっていく。

 沈んだ石は永遠に消えたわけではない。
 川の底に厳然として存在しているのだ。

 私はこうして社会の底辺である刑務所に座っているが、
 私によって起こった波紋は今や
 何十万、何百万のキリスト教徒たち、
 そして良心ある者たちの
 胸から胸へと広がっていくのだ」

(「侍りの恵み 真の父母様と過ごし た日々』 163~164ページ)


波紋の中心で厳然と生き続けることができる石。
私たちは、そのような実体になっていかなければなりません。

人々の心に感化を与える波紋を起こし、
その中心に立つことのできる
私自身になりたいと強く感じます。


私たちの目の前には、
実体の真のお母様がいらっしゃいます。

いま一度、人類の真の父母の前で子女として立つとき、
どのレベルの父母として対しているのか、
自らに問いかけてみてください。

家庭レベルの父母、国家レベルの父母、
天宙レベルの父母、皆さんは、
お母様をどのように見詰めていますか?

「真の子女の日」を祝う一日を迎えました。
この日を、自分自身が、真の父母と対するに
ふさわしい子女なのかを見詰め直す
貴い機会にしていきましょう。


本年も残り二か月となりました。

真のお母様は、来年4月13日に挙行される
天苑宮・天一聖殿入宮式の一点に焦点を定め、
一日を千年のごとき心情で歩んでいらっしゃいます。

祈りを通して私たちの心を
真のお母様の思いにつなぎ合わせていきましょう。

そして、子女としてふさわしい歩みを
なすことを決意し、出発する、
この場となるよう心から願います。


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「神の子女としてふさわしい実体になろう」
11月1日松濤本部
世界家庭12月号
再編集 文責:ten1ko2


日本家庭連合が一番困難である、この時に
田中会長が立っておられるということは、
本当に感謝でなりません。

会長はお母様の前にも、
率直であり、正直に報告されます。

もちろん願いにこたえたい、という思いは
とても強くお持ちではありますが、
しかし、日本家庭連合を守るため、
上申されるのです。

まさにお父様が言われるごとく、
水底に投げた石のように、
多くの影響を与えてくださっています。


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2024年12月18日

想像を超えるストーリー 妻の陰に夫(そして義母) 《橘先生の夫婦愛♡講座》



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橘幸世さんによるエッセー
「夫婦愛を育む」より
『義母の度量』です。

 
都会から地方に移住した若者に焦点を当てた番組、
NHKの『いい移住』。2月28日放送分は
愛知県豊田市の山里が舞台でした。

冒頭古民家カフェから始まったので、移住して始めたんだな
と、少なからず既視感を覚えました。

が、実はそこは単なるカフェではありませんでした。
カフェの主である女性がそこに至るまでの
ストーリーは、全く想像を超えるものでした。


市街地で働いていた彼女でしたが、
数年前膵臓(すいぞう)がんと診断され、
余命3カ月を言い渡されます。

膵臓がんは、がんの中でも生存率が
低いことで知られています。

そんな彼女に、プロポーズする男性がいました。
全てを承知で。

それだけではありません。
当然親には反対されるだろうと覚悟して、
二人で彼の実家に報告に行くと、
彼の母は彼女にこのように話します。

「うちの息子と結婚してやってください」


息子の器も大きいけれど、母親の器は
さらにその上をいっている!

番組では若い二人がそのシーンを述懐するのみで、
当時の母親の思いを尋ねるところはなかったのが、
私としてはとても残念です。

あるだろう複雑な思いをのみ込み、
若い二人の思いを尊重して、
結婚することを受け入れるだけでも、
十分“できた”親だと思います。

彼の母親は、別次元でした。

あくまで私の想像ですが、お嫁さんが
病気のことで負い目を感じることがないように、
親の側から頼み込んだという形を取ったのかもしれません。

自分が配偶者として、あるいは親として
同様の立場に立ったら、…どうでしょう?


晴れて夫婦となった二人。
とはいえ、妻の治療は続きます。
一時は体重が30s台に落ちたこともあったそうです。

妻の体調が良い日には、夫は気分転換にと
自然の中に連れて行きました。
すると少しずつ体調が回復していきます
(大きな愛が起こした奇跡、と私は勝手に思っています)。


稲を植える農業体験にも夫婦で参加しました。

ところが、自分たちが植えた稲が収穫直前に
イノシシに荒らされてしまいます。
そこで深刻な獣害問題を身近に知ることとなりました。

田畑を荒らすイノシシや鹿など害獣を駆除する手が、
その山里では圧倒的に不足していると知った彼女は、
それならば自分がやろうと、未知の世界に飛び込みます。

ハンターの資格を取って移住したのです。


“もらった”命を人のために役立てたいと、
創意工夫を凝らし、さまざまな形で山里に貢献しています。

人間の都合で奪った命は極力無駄にしたくないと、
駆除した動物を破棄するのではなく、
解体し自身のカフェで料理として提供。

命の尊さを教える場を設けたり、獣害自体を
減らす工夫を地域の人と行ったりしていて、
見事というばかりです。


番組では妻にスポットライトが当たっていましたが、
忘れてならないのは、そんな妻に寄り添い続ける夫。

夫あればこその今の妻です。

続・夫婦愛を育む 3
義母の度量
ナビゲーター:橘 幸世
再編集 文責:ten1ko2


橘先生が紹介されていた番組。
一度見たいものですね。。。

それにしても、カフェを開くまでに至った背景、
その道のりには、様々なものがあったのですね。

余命3か月の女性と結婚するという男性。
この男性もどんな動機で結婚されたのか、
とても気になるところです。

ただ橘先生は、
「義母の度量」というタイトルにもあるように、
お義母さんの器にも目を向けておられます。

一つの出来事を深掘りしていくと、
いろいろなことが見えてくるものですね。。。

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2024年12月17日

大変なことがあると、決意が揺らいでしまうのですが・・? 《金元弼先生のベストアンサー》



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大変なことが起きると、
神も何もかも忘れてしまう・・・
ありがちな私たちの姿です。

文鮮明先生が、死の収容所に送られる、
そういう状態でも神を慰めていくことができたのは、
どうしてなのでしょうか。

金元弼先生のみ言より、
「神を慰められる」です。


(興南刑務所に行くことになってしまいましたが)
しかし、神は(文)先生に一条の光を啓示されました。

というのは、その刑務所には先生を待っている
一人の青年がいるということを
牢屋に入られる前に教えてくださったのです。

もちろん先生は、み旨の道を復帰していくためには、
どういう死の道があろうとも行く、と覚悟しておられました。

けれども、それが現実として現れたときには、
どのようにしてこれを克服していったらいいのか、
という問題にぶつからざるを得ませんでした。


皆さんはどうですか。

「私たちはどんなことがあっても行きます」
と言ったけれども、
突然困難なことが自分の前に出現してくると、
まず「どうしたらいいのか」というふうになるのと
同じだと思います。

そしてまた、こういう時には、
お祈りすると常に神が共にあるように感じられるのです。

反対に遭うと、神も何もかもどこかに行ってしまいます。
自分だけが残ってしまうのです。
皆さんはそういうことがありませんか。

今は、何をしても神は聞いてくれるように感じられますが、
いったんそういうことが起こると、
もう誰もいない状態になり、自分だけが残るようになります。
その後に神がやって来るということを感じるのです。

不安な時、寂しい時、つらい時、怖い時は神がいないのです。
それが過ぎてから神は現れるのです。

ですからこうした危機的な怖い時でも、平和な心で応じたときに、
初めて神が現れるのです。


お分かりですか。
私たちが神と授受作用できる自分となっていれば、
神が入ります。

しかし、神との授受作用がプツンと切れた時というのは、
不安な時なのです。
そういう時には、神を得ることができません。
それは、授受作用の道がないからです。

不安というのは、既に神から離れている状態なのです。
自分の心と体が授受作用するときに、神が運行するのです。

神のみ意を中心として、心と体が授受作用するはずなのに、
サタンを中心として授受作用したら、
サタンの主管を受けるようになります。

ですから不安を感じるということは、
神の愛から離れるよ、という予告なのです。
早く神に帰れということなのです。


そういう不安な中で、先生はかえって神を慰め、
神を勇気づける心をもたれたので、先生は涙を見せなかったのでした。

それゆえに神は、牢屋の中に先生を迎える準備を
既にされていたのでした。

ですから先生は、牢屋の中に入っても、
絶望よりはかえって希望をもたれたのです。

先生を迎える準備をしている青年が待っているから
希望に満ちた心情で尋ねていかれたのでした。

神から愛される人は死の境地を尋ねていっても、
そこにはその人を迎えてなお生きる道を
準備している人たちが待っているというところに
神の愛があるのです。


先生は呼吸しても、初めの呼吸は神の呼吸であり、
朝起きる第一声を神から始めるのです。

きょうみ旨のために出発するに当たって、
この第一歩を誰のために歩むのですか。

私たちにあっては、第一歩をお父様、
第二歩をお母様のために歩むのです。

先生は第一歩を神、全部を神というように、
神を初めとして出発するというわけです。


「お父様」、「お母様」と私たちは口癖のように言っています。
けれども神が願ってきた心情で眺めた場合、
私たちが唱える「お父様」と
神が願ってきた「お父様」とは相当の差があるのです。

牢屋においてさえも先生を待っている青年がいるように、
先生が行かれる道は神が摂理されました。

先生の行く道を神はどうして準備しなければならないのでしょうか。
その内容がどこにあるのだろうかということを考えながら、
先生を研究してくださるようにお願いします。

正しい心情でもって、先生をよく正しく見つめることができましたら、
短い期間であっても、十年間共についてきた人よりも
短期間のうちに、先生を推し量ることができると思います。


普通の人たちは何の気なく歩いています。
しかし誰も知らない神との時間をもつという心情で一歩を歩むのです。
こういう心情は世界に誰ももっていないだろうと。

皆さんの歩き方一つさえも意義深いものがあると思います。
天はお父様を象徴し、地はお母様を象徴するといつも言われますが、
その実感がしないことがあると思います。

実感するためには、この地はお母様である
という心情でこれを踏んでいく場合、
何の気もなくお母様を踏んだら痛いでしょう。

痛くないようにするためにはどうしたらいいのか。
その心情で歩く場合に皆さんに与えられる心情と、
何の気もなく歩く心情とは全然違うのです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「神を慰められる」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


「不安を感じるということは、
神の愛から離れるよ、という予告」
貴重なみ言をいただきました。

どんな厳しい環境にあっても、
絶対的に神様を慰めていかれたお父様に
神様は希望的な準備をしていかれました。
そんなお父様の歩みを相続していきたいです。

また、「この地はお母様であるという心情で
これを踏んでいく」とあるように、
天から与えられたみ言であると思って、
一歩一歩、しっかり踏みしめていきたいと思います。


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不安なのは神を離れているから 牢屋でも天を慰められた父
posted by ten1ko2 at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする