2025年02月07日

刑に服す主、霊能者たちが離れていった理由は、3年で天国ができなかったから?! 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生のみ言
「先生に侍るということ」を紹介します。


初期のころ、「このみ旨はいつ成就しますか」
と聞かれたことが幾度もあります。

今のメンバーの中にも、
「いつみ旨が成りますか」と聞く人がいます。

それは、このみ旨の道が正しいか、
真理であるかどうかの問題になります。

我々の責任分担をいかになすか、果たすかによって
その年月は短くなったり、延長されたりするのです。

霊能者たちが三年で現れるといったのに、現れなかったとしても、
先生が神の啓示どおりの先生であるならば、
三年でできなければ七年、七年でできなければ十年、
十年でできなければ一生涯かけても行くべきではないでしょうか。


お父さんと子供がいて、
「お前が中学校に入ったら自転車を買ってあげる」
と約束したとします。

ところが十年たっても買ってくれませんでした。
おかしい、と思っても、十年後の約束が
そのとおりにならなかったとしても、お父さんはお父さんです。

それと同じで、時が来れば成ると思います。

しかし準備した人は恵みを受けるけれども、
準備していない者は、時が来ても恵みを受けられないのです。

自分で準備した人には天国は来ますけれども、
準備していない人には、天国が来ても
天国を迎えることができないのです。

約束した時が来たから成るという考え方は
間違っていることを分かってほしいのです。

 
ですから、神の啓示があって、たとえ三年を過ぎて
現れなかったとしても、常に神が啓示されたその中心に立って、
その信仰をもち続けなければいけなかったのです。

イエス様がこの世に来られた時に神は、
「あなたは三十三歳の時に、十字架にかけられるよ」と、
そうおっしゃったでしょうか。
そうは教えませんでした。

栄光をもってこの世で地上天国を実現されることを
約束しておられました。

では、イエス様が十字架につけられなければならない
ということを知ったのはいつでしょうか。

その時にイエス様は、
「ああ、神様の約束は違いました。
あなたは神様ではございません。
だから私はこの道は行きません」
と言われたのでしょうか。

 
この霊能者たちは、自分を中心として考えたのです。
神の啓示を自分を中心として見つめ、
神の目で見つめられなかったのでした。
そして彼らは、たまにしか教会へ来なくなりました。

しかしながら、このメンバーの中には、
自分の家で信仰をもち続け、礼拝をして、
先生が出てこられるのを待っている人もいました。

あるいは、先生の所へ面会に行って、
信仰を守っている食口たちもいました。
ですから私たちも、何事をするにしても、
それが神の喜ぶ道であるとするならば、
たとえ一年のうちに成就しなくとも、
それを行うべきなのです。

先生のいらっしゃらない教会では、
自然と集会や礼拝が行われなくなりました。
しかし、メンバーの家に集まって礼拝をするようになりました。

以前、皆様から「どうして霊能者は離れたのでしょうか」
という質問がありましたので、その話をします。

今は『原理講論』に体系化されていますが、
当時、み言が体系化されていたら、
そういった人たちは離れることはなかったでしょう。

先生が入獄された時に、神からの啓示によって、
自分で先生を助けることのできる条件を立てる
絶好の時であったのです。
しかし、それを勝利できない人たちがいました。


霊能者の集団(腹中教)の中心者が、長年の間、
たくさんの啓示を細かいところまで受けて、
メシヤを迎える準備をしていました。

そういう霊能者であっても、最後の段階になって、
牢屋で先生を迎えるという瞬間において、
たった一つの失敗をしました。

今まで苦労して築き上げてきた
すべてのものを覆してしまったのでした。

洗礼ヨハネのことを考えてみてください。
長い時間をかけてメシヤのために準備した人です。
それが、イエス様に仕えることができなくて、
どうなりましたか。

私たちは常に謙遜な心が必要なのです。
先生のその手紙を読んで、まず神に尋ねたならば、
必ずその答えを得たことだろうと思います。


イエス様は十字架を前にして、
「わたしの思いのままにではなく、
みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)
と祈ったその祈りは、
私たちにとって重要な教訓となると思います。

イエス様御自身の意見があるはずがありません。
イエス様は、神のみ意はこうであると自分で考えようとする、
その心までも否定したのです。

イエス様が神のみ意を考える、そのみ意と
神御自身の本来のみ意との間に、
距離があるものだということを教えたのです。

私たちは、「先生はこうである」と考えます。

私は長年先生と共にいましたから、
先生の御心情が分かりますけれども、
私が思うのと先生御自身のみ意とは距離があります。

先生が考えられるみ意とは何でしょうか。
そこまで考えてみないと、
さっきの霊能者のような失敗を
私たちもしないとは限らないのです。

こういう心構えを謙遜というのです。
この点は、私がずーっと先生と共におりまして、
非常に重要だと考えたポイントとなることです。
これは先生に侍りながら感じたことです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「先生に侍るということ」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


み旨に対しては、常に
謙遜な心を持たなければならない、
そのことを改めて感じさせていただきました。

また、み旨成就のためには、
神様の責任分担と人間の責任分担、
これが合致しなければならない、
この重要性も感じます。

神様は、真の父母様は、100%み旨を成されますが、
私たちが責任を果たすか果たさないかが重要であり、
み旨が成されない時に、どのように捉えるのか、
謙遜な心を持っているならば、
しっかりと受け止めることができるのだと思います。

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posted by ten1ko2 at 08:00 | Comment(1) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする