2025年03月02日

祈ってみないとわからない 「お腹が空いていた」ことも分からない私たち ──赤ちゃんがお乳を求めて泣く気持ちで 《柴沼先生》



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天一国特別巡回師である、
柴沼邦彦先生の誌上説教です。

お祈りについての内容、6回くらいの
シリーズでご紹介します。

祈りとは赤ちゃんがお乳を求めて叫ぶようなもの

初めに、真のお父様の祈祷文(1956年7月18日、韓国、前本部教会、
マルスム選集1-193〜194)
を訓読します。

「(天の)お父様! きょうは民族に代わって、
数多い教団が我々と共に敬拝を捧げる日ですが、
集まる所々に哀れみの愛を許諾してください。

そうして無知なる民族が心の門を開けて、
天倫が要求する一つの生き方で、天が定め、
立たしめようとする切ない愛の心情を
察することができるよう、悟らせてくださり、
そのような子女たちが、所々から多く現れ、
愛の炎を起こすよう、役事してください。

そのような生命の炎が
全世界に現れるように許諾してください」

お父様はこの祈祷の中で、
「無知なる民族が心の門を開けて」と言われています。

人間の中には、「心の門」があるというのです。
しかし私たちは、その心の門について、
ほとんど理解できていないのではないでしょうか。 

お父様が言われる心の門とは、すなわち
神様と一問一答の交流の場を持つことができるような門です。


堕落する前、アダムとエバは
神様と一問一答していたと言われています。

そのレベルが完全ではなかったとしても、
アダムとエバは神様と自然に交流できる立場にいました。
しかしながら、堕落した結果、その門が閉ざされ、
人間は神様と一問一答をすることができなくなってしまいました。


それゆえ私たちは、神様と交流できる
心の門を開いていく生活をしなければなりません。
それが、宗教における信仰生活です。

そして、その門とはどういうものかを
理解できるように導いてくれるのが、
すなわち祈りの生活であるわけです。

祈りの生活は、人間だけにあるものです。
動物には祈りの生活がありません。

アダムとエバが堕落して以来、地球上のどの国においても、
また、いかなる時代においても、
人間が本然の姿に戻りたいという思いを持ち、
神様を慕いながら祈りをもって
生活している姿を見ることができます。

 
お父様は、祈りとは
赤ちゃんがお乳を求めて叫ぶようなものだ
という内容のみ言を語られています。

赤ちゃんは、おなかがすけば、お母さんの前で
泣いて、お乳を求めます。
本来、祈りとは叫びなのです。

しかしながら私たち人間は、
叫んで祈るようなことがなかなかできません。

そのため、自分が不足な者だ
ということが分からないのです。
おなかがすいているということも分かりません。

祈りが必要だということは知っていても、
叫ぶような祈り、赤ちゃんがお乳を求めるように
神に叫ぶ、神に求める、そういう世界にまで
至っていないという現実があるのです。

『世界家庭』2021年9月号
天一国特別巡回師 柴沼邦彦

天一国特別巡回師に聞く
神霊と真理に満ちた教会を目指して 第23回

紙上説教 心の門を開けましょう
〜神氏族メシヤ勝利の道〜@
心の門とは、神様と一問一答の交流をする場
https://www.kogensha.jp/news/detail.php?id=10216
(光言社 中和新聞より)
再編集 文責:ten1ko2


宗教者たちは、「心の門」を開くべく、
様々な修行生活をしていきます。
そして悟りの境地に至っていくのです。

最高、最強の修行生活は、
やはり徹夜精誠だと思います。

アボジー・オモニーと三分間叫び、
祈りをささげていきます。

1200回を超え、
その恩恵は、どんどんと積み重なって、
精誠の土台の上で受けることができるのです。

もっともっと
精誠を尽くさなければ、と思わされます。

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