2010年10月09日

〜心情の十字架を越えて〜私の拉致監禁体験記(8)


Conversion_of_St_Paul-by-Caravaggio.jpg



いつの間にか、外は暗くなっていた。
母が「お腹すいたでしょう?ご飯食べなさい」と夕食を食べるように促されたが、
無視をして寝ているふりをしながら、そのまま祈り続けた。

祈る中で、最終的には偽装脱会しかないと思った時、
両親の情を越えなければいけないという思いが出てくる。

両親は、私のためを思って、統一教会を脱会させることに全精力を注いでいる。
今まで、2年間準備してようやく私を「保護」したわけだ。
両親にとってみると、どれだけ教会をやめることを願っているであろうか。

その時、文先生の歩んできた道のりが浮かんできた。

1946年6月6日、神様の命を受けて、38度線を越えて北へ向かった後、
南から来たスパイであると誤解を受け、興南の強制収容所に投獄された。

そのことを知ったお母さんが、文先生の元を尋ねてきた。
田舎から愛する息子のために持ってきた炒り粉(はったい粉)を渡したにも関わらず、
文先生はどんな行動をとったのか。
大事なはったい粉をともに生活する囚人に与えたのだった。

愛するものを愛することの出来ない道を文先生は歩まなければならなかった。
文先生は特別な使命を持っていたので、個人的な感情で生活することが出来なかったのである。

親が私のことを心から愛していることは心の底からわかっている。
しかし、その親は誰に全てを委ねているのだろうか。
統一教会を反対する牧師、
統一教会を脱会させるためにはいかなる方法も厭わない指導をする者を信じているのだ。

自分を愛してくれていることはよくよくわかる。
しかし、親が私のことを愛する情を反対派たちがうまく利用していることを思うと、
悔しくて悔しくてたまらなかった。

「神様を裏切ることは出来ない」人情を越えて、天情を求めつつ、
祈っていると自然と涙があふれてきて仕方がなかった。


 (興南の)監獄にいる間、何度か母が訪ねてきました。
・・・乗り換えながら二十時間もかけて来るのです。
・・息子に食べさせるために、親族の八親等まで頼って米を一握りずつ集めて、
炒り粉(はったい粉)にして持ってきてくれました。

母は私が結婚する時に着た紬のズボンを持ってきてくれました。
囚人服は硫安で溶けてぼろぼろになって肌が見えていましたが、
私は母がくれた紬のズボンを穿かずに他の囚人にあげてしまいました。

親族を頼って準備してきたはったい粉も、
母が見ている前で囚人たちにすべて分け与えました。

息子に食べさせ、着させようと真心を込めて作ってきた食べ物と衣服を、
全部赤の他人に与えてしまうのを見て、
母は胸をかきむしって泣きました。

「お母さん、私は文なにがしの息子ではありません。
文なにがしの息子である前に、大韓民国の息子です。
また、大韓民国の息子である前に世界の息子であり、天地の息子です。
ですから、彼らを先に愛してから、
お母さんの言葉を聞き、お母さんを愛するのが道理です。
私は度量の狭い男ではないので、
そういう息子の母親らしくしてください。」

氷のように冷たい言葉を浴びせたのですが、
母の目を見る私の胸は張り裂けんばかりに痛かったのです。


(文鮮明著 「平和を愛する世界人として」 より抜粋)


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posted by ten1ko2 at 06:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | *私の拉致監禁体験記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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