2011年11月28日

私の「思い」が変わる時〜浅川先生の語られた自叙伝書写の証し




先日の講演会で浅川先生が、
書写をする中で、ずっと変えたいと思っていたものが、
変わったという証をしてくださいました。


世の中、思い通りに行かないことがあります。
ここでは嫁姑の関係で「思い通りに行かない」ことです。

ある姑が嫁に対して、「思い通りに行かない」
と思ったそうです。
その最大の理由として、嫁は朝、食器をちゃんと洗わないというのです。
「嫁は食器を洗うもの」という思いがこの姑にはあったのです。

しかし、嫁は早朝に仕事をしているのだそうです。
朝帰って、朝食を作り、皿を洗おうとするとするのですが
眠くなって、落としそうになり、
つい休んでからと後回しにしたり、
ろくに洗わないで食器棚にしまうこともある。
姑としては、その姿に腹が立つというのです。
腹が立って仕方がなく、嫁に向かって時々暴言を吐いてしまいます。
嫁も言い返す、険悪な関係でありました。

しばらくして、あるきっかけで、この姑さんが、
書写を始めるようになりました。

書写は、既に結果が出来るものではありません。
しかし、じわじわと効果が現れてきます。
問題解決に至るように導いてくれるのです。
姑が書写をし続けてから、変化が起きました。

今まで姑は「絶対嫁は食器を片付けるべきだ」
という固定観念がありました。

しかし、書写を続けている内に、
ある心の変化が現れたのです。

「どうして嫁は食器洗いをしないといけないんだろうか」
そんな思いにさせられたといいます。

ついにこの姑は重大なことに気づきました。
「この食器洗いは自分がすればいいんだ」
嫁が来てから何年も気づかなかったことを、
書写をするようになってから、ようやく悟ったのです。

そして、姑が食器洗いをするようになりました。
するとどういうわけか、
朝働いて帰ってくる嫁が愛おしくなりました。
さらには、喜びが湧いてくる、何だか嬉しくなってくる
とても平安な境地に入ってくるようになりました。

嫁はその姿を最初見ていましたが、
彼女も悟りに入りました。

「お母さん、私にやらせてください、
食器洗いは嫁がやるものです」
そして、嫁が食器洗いをするようになったといいます。

思い通りにならない、と思っていたその「思い」が
実は問題でした。
相手(嫁)を変えたいと思っていたのに
自分のその「思い」の間違いに気づいた時
最終的には不思議なことに
相手が思い通りに変わってくれたのです。

自分中心で物事を考えると他人の苦労がわからなくなり、
要求する思い、そして戒めを与えたくなります。
「人はこうすべきだ」という観念にしばられ、
そこから抜け出せなくなります。

自分本位の気持ちを、書写を通して、
断ち切ることが出来たというのです。

憎しみの心で苦労を断ち切ると
さらなる苦悩に落ちていきますが、
愛の心で苦悩を断ち切れば、
喜びに変わるのです。



み言葉の力というのは、本当に物凄いものです。

文先生がサタンと闘って勝ち取った真理のみ言ですから、
書写をし続けたり、
または訓読をし続けることにより、
自分の心に善なる変化が起こるのだと思います。

そして、おそらくこの姑さんもそうだと思いますが、
書写をする時に、ただ単にしたのではなく、
真心を込めてやり続けたことで、善なる結果が現れたのではないでしょうか。

やはり、その人の動機も重要なのだと思います。
重箱の隅をつつくように、批判的にみ言葉を読んだとしてでも、
その如くの結果しか現れないでしょう。
み言葉を通して、自分の心を清めていきたいと思えば、
その如くになるのだと思います。


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