10月は、「解放・釈放・祝福の月」
と言われます。
昨日は、6000双の
国際合同結婚30周年記念日でありました。
先輩家庭の皆様の精誠があって、
私たちが生かされていることを思うと、
先輩の皆様方に心から感謝と
祝福の言葉を述べたいと思います。
「本当におめでとうございます」
また、同時に昨日は
北韓解放記念日でもありました。
1950年なので、62周年ということになります。
とても感動的でいつか掲載したいと
思っていた動画があります。
昨日の記念日を機に、紹介させていただきます。
文章を起こしますが、時間のある方は
下の文章を見ないで、映像をみてください。
12分弱です。
音楽と写真、絵を通して、
当時のお父様を偲ぶことができると思います。
★
(少しだけ映像と文章が違いますがご了承ください。
長いですが、頑張って読んでみてください)
北韓の監獄から出てきて、三十八線を越える時、
「間違いなく三十八度線の南側に行かなければならない」と考えました。
情勢を見て、静かに霊的に考えてみると、事態が不利になっているのです。
心がしきりに韓国に越えて行こうとするのです。
皆さんにはそれが分からないでしょうが、先生には何かがあるのです。
監獄で共にいて先に出てきた、足の折れた
朴正華という人を連れていくことになりました。
私より大きな人を連れて行くのに、背負って行くことができず、
自転車に乗せて行こうとするから大変でした。
行こうとしても行くことができず、死のうとしても死ぬことができない、
というようなことになったのです。
道路は軍需物資と車両が後退するのに使われているので、
民間人が利用できる道は小道でなければ田んぼなのです。
そこを通って行かねばならないのです。
その苦労は到底語り尽くせません。
それで途中で朴正華が、こうしていては共に死んでしまうので、
先生を愛しているからといって、自殺しようとしたのです。
それを私に見つけられて気合いを入れられたのです。
そのようなこともありました。
そのようにして龍媒島に行き、一番最初に船に乗ったのですが、
群衆が押し寄せてきて、大騒ぎになったので、どうなったかといえば、
軍隊と警察の家族でない者は引っ張り出されたのです。
そのような状況になってしまいました。
ですからやむを得ず追い出されたのです。
他にすべがありますか。
龍媒島に行った第一の旗手が結局、再び戻されることもあったのです。
環境に追われてそのようになったのです。
間違いなく先頭で南側に出てくるところでした。
このように、様々な問題を経ながら避難してきましたが、
夕暮れ時になって、共に避難してきた人たちが、歩き疲れているのです。
疲れ切ってしまっているのです。
それで、村に入って寝ようとしたのです。
しかし先生は、夜を明かしてでも
臨津江を越えなければならないと感じたのです。
他の人々がみな寝るのに、先生が行こうと言うので、
「先生は何であんなに意地っ張りなのか!」
このように思ったはずです。
膨れっ面をしていました。
夜、他の人々が全部寝ているのに、
私たち三人は自転車を引っ張って臨津江まで出てきたのです。
臨津江の川岸に来てから寝ました。
午前一時半か二時くらいに到着したのです。
三十八度線から青丹まで八里の道のりです。
その道のりを月夜に歩いた、そのことが忘れられません。
どれほど疲れてだるいことか。
この人(金元弼)は荷物を担いで歩きながら居眠りしていたのです。
分からない人はそうなのです。
しかし先生にはその一歩が忙しいのです。
今晩中に臨津江の先端まで行かなければいけないという、
そのような何かがありました。
そのような時には、先生は非常作戦、非常措置をするのです。
アンテナを最高に立てるのです。
その次の心配が何かと言えば、
臨津江を渡っていこうとすれば水が凍らならければなりません。
その時、気温が下がって、臨津江が凍ったのです。
そうして、明け方早くに起きて出発したのです。
臨津江が凍りついていて、結局川が渡れたのですが、
私が一番最後に渡っていきました。
そのあとはカットされたのです。
カットして全部送り返されたのです。
このようにして韓国の地に来ました。
こんな時、一分でもうろうろしていたら、
どうなっていたことでしょうか。
人の運命は、時間の問題ではありません。
すべて滅ぼしてしまうのです。
そのようなことは、私たちの人生においてもたくさん起こるのですが、
天道をわきまえていく道の前に、それがないだろうかというのです。
どんなに深刻かというのです!
それを皆さんは知りません。
一つの峠だけ越えれば生きる道があるとすれば、
わき目も振らず追い立てて行かなければなりません。
「行かない」と言えば、ぶん殴らなければなりません。
胸ぐらをつかんで、無理やりにでも引っ張っていかなければならないのです。
それが愛です。
私は、三十八度線を越える時に祈祷した言葉を忘れません。
「天の父よ! 私は韓国の地に行きます。
私は北韓に来てみ旨を成すことができずに敗者のつらさをもったまま、
獄中の身を免れることができませんでした。
そして今、追われる群れの歩みに従って南に行きます。
しかし、またこの地を訪ねてこなければならないことを知っています。
たとえ私が、三十八度線の北側に行くことができなくても、
私の思想を植えて後孫を行かせます。
彼らが行くことができなければ、私に従う弟子を送って行かせます」
と、そのような決心をしてきたのです。
そして十年の歳月を一日のごとく、今まで戦ってきたのです。
私が天の前に誓って出発した歩みは皆さんとは違うのです。
両手で三十八度線の土をすくい、
「必ずこの手で共産党を消化し、何年かのちには必ず戻ってくる」と決意しました。
「私のこの手で自由世界を収拾し、糾合して、北韓を解放するぞ」
と祈祷したのが、昨日のことのようです。
三十八度線に両足でまたいで立ち、泣きながら
「南北を私の手で統一します」と誓いました。
目に涙をためて祈祷したことは、一緒に来た人も知らないのです。
私が悲しみを残して、私のために精誠を尽くした
故郷にいる母と父と兄弟を後ろに残して来ながら、
「この親不孝者が再び帰ってくる日を待っていてください、死なずに待っていてください」
と念じ、北韓の地を離れてきたことを、私は忘れないでいるのです。
★
『たとえ私が、三十八度線の北側に行くことができなくても、
私の思想を植えて後孫を行かせます。
彼らが行くことができなければ、私に従う弟子を送って行かせます』
この言葉が胸を打ちます。
どれだけ、南北統一を果たしたいお父様だったか。。。
私たちの足りなさゆえに、
霊界に行かなければならなかったお父様を思うと、
申し訳ありません、と思うほかありません。
お父様の悲願を果たす私たちに
なっていかなければならないと感じます。
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