2012年11月11日

私たちが殉教者から学ぶもの 〜共産圏初の殉教者マリヤ・ジブナと、東洋のジャンヌ・ダルク柳寛順烈士


昨年、柳寛順烈士の記事を書いて、
あっと言う間に1年経ちました。

柳寛順は若干16歳で
3.11独立運動に関わったとして、
捕らえられ、結局獄中で
おそらくは酷い拷問の末に 亡くなりました。
あまりに惨い姿だったということです。

現代の柳寛順烈士ともいえると思うのが、
先日紹介したマリヤジブナさんではないでしょうか。
 文先生が霊界で最初に呼ばれる人とは・・・?

このマリヤジブナさんは、
地下活動でありながら、
ものすごく熱心に
伝道をしていました。

共産主義下では、
通常の伝道はできません。
宗教活動、伝道活動をしていることが
わかれば、つかまってしまいます。
生死を掛けた活動だったのです。

人が集まることも、
自由にどこかに旅行することも
制限される社会でした。
伝道といえば、
信頼できる人に、口伝えで
伝えていくしかできません。

そんな地下活動で、
なんと30名くらい
伝道をされたそうです。

ある日のこと、
いつもと同じように、
礼拝が始まりました。

もちろん、
マリヤジブナさんが
伝道された方も
そこに参加していました。

その時に、突然
秘密警察が来ました。

一網打尽です。
すべての人が捕まりました。

実はマリヤジブナさんが
伝道していた人の中に、
スパイがいたのです。
もちろん
そんなことは知る由もありません。

マリヤジブナさんは
牢屋に入れられてしまいました。
そして、
結果的に、外国から来た
宣教師ということで、
最後まで拷問を受け、
獄死してしまったのです。

その前日に遺したという
彼女の手紙の証しは
先回書いたとおりです。

後に引き渡された彼女の遺体は、
絶対空かないように密封された
棺だったということです。
惨い拷問が成されたことは、
想像するに難くありません。

当時、共産圏での宣教活動は
ナビ(蝶)作戦と呼ばれていました。

自叙伝に
次のようなみ言があります。



その時、私の目の前に
マリアジブナが黄色い蝶になって
現れました。
チェコスロバキアの冷たい監獄を
抜け出した黄色い蝶は、
力を失って
座り込んでいる私に向かって、
力を出しなさいとでも言うように、
羽をひらひらさせました。
彼女は、命をかけた宣教を通して、
本当に幼虫から脱皮して
蝶になっていたのです。




共産圏に行った宣教師たちは
知られたら危険な活動だったので、
誰がどの国に行ったのか、
その人が宣教に行ったことさえ
誰も知りませんでした。
知っているのは、本人とお父様と
世界宣教本部だけだったそうです。

柳寛順烈士は
命をかけて、
韓国を愛し、
イエス様を愛し、
殉教の道をいきました。

まさにマリアジブナさんも、
神様と父母様を愛し、
同じように殉教しました。

この精神、心情を相続する
私となることを
もう一度決意する一日に
していきたいと思います。

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posted by ten1ko2 at 08:55 | Comment(2) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
柳寛順烈士は
命をかけて、
韓国を愛し、
イエス様を愛し、
殉教の道をいきました。

「いつも私のとなりに神さま」のブログオーナー様

柳寛順(ユガンスン)女史についての記事を読ませていただいて、西大門刑務所を訪れた時のことを思い出しました。私は韓国に5年近く住んでいて、バスに乗っていると何度も旧西大門刑務所の前の通りを通過することがありました。
何回か訪れたこともあり、そこは、今は記念館のようになっていて、柳寛順(ユガンスン)女史が血だらけになって拷問を受けているリアルな人形模型が展示されていました。もう20年以上前の話であります。

今の日本の学生に、柳寛順(ユガンスン)女史について質問してもわからないと思います。簡潔に説明させていただくと、1910年の日韓併合によって、韓国は日本の植民地になるのですが、その支配から独立を叫んだのが、1919年3月1日の「3.1独立運動」です。この独立運動と柳寛順との関係については、wikipediaから引用させていただきます。

1919年、三・一独立運動が勃発すると朝鮮総督府から各学校に対して休校命令が下された。故郷の天安に帰り、教会関係者などを通じて万歳デモを計画した。4月1日、柳寛順は並川市場に集まった群集に独立運動のアジ演説を行い、デモ行進に移った。しかし、日本の憲兵警察は群集に発砲し、柳寛順の父母も死亡した。

柳寛順(ユガンスン)女史は、当時、梨花学堂(現在の梨花女子大学)の学生で、16歳だったということです。

韓国の立場から見たら、あるいは、柳寛順(ユガンスン)女史の立場から見たら、日本はどういう存在だったでしょうか。

確かに、日本の政治家の歴史認識の中で、「侵略」か「侵略でない」かの論議はあるでしょうし、また、「戦後賠償は済んだ」、「いや、済んでいない」という論議はあります。

しかし、独立を求めてデモをすることで、父母を射殺された柳寛順(ユガンスン)女史の立場から考えたら、日本は間違いなく怨讐の国です。

さて、柳寛順(ユガンスン)女史がその後、どうなったかということは、再びwikipediaから引用させていただきます。

一審で暴力デモを主導した罪で懲役3年が宣告されたが、控訴審裁判で裁判長と言い争いになり、裁判所の椅子を裁判長に投げつけるという事件を起した。この法廷内の事件によって法廷侮辱罪が適用され4年の刑期が追加求刑されたが、宣告された刑期は3年であった。高等裁判所に上告せず、これが刑量になったが、減刑があり最終刑量は1年6ヶ月となった。しかし、その後も大規模獄中デモを主導するなど抵抗を続けた。1920年10月12日(旧暦9月28日)、西大門刑務所内で「大韓独立万歳」と叫び、デモで負った傷と拷問がもとで17歳の若さで死亡した。梨花学堂ではこの知らせを聞いて遺体引取りを刑務所に申し出ようと考えたが、独立運動組織と見られることを恐れて結局は誰も行動できなかった。

脱亜入欧政策を取り、富国強兵の日本帝国主義時代の不幸と片付けていいのでしょうか。本当に大東亜共栄圏を日本が目指していたなら、武力による鎮圧は疑問です。

神さまの摂理から見たら、しかしながら、3.1独立運動は大きな意味を持っていると思います。旧約聖書のエジプトの支配の中でモーセが誕生したのと同じく、日本帝国という支配の中から、救世主(メシヤ)が韓国から誕生することになったのです。その名は、文鮮明先生。1919年3月1日の独立運動以降に、生命を宿し、1920年1月6日に韓国の平安北道定州の文慶裕様の家庭にお生まれになられました。

そして、文鮮明先生も、1955年、梨花女子大学事件でマスコミに騒がれ、無実の罪の疑いで西大門刑務所に劉孝元協会長と金元弼先生と一緒に拘束されることになったのです。

これについても、wikipediaから引用します。
新興宗教の「世界基督教統一神霊協会」(統一教会、統一協会)に学内の教授や女子学生など多数が入信し、その内の10数名が免職、退学処分となった事件。この事件をきっかけに統一教会の実態が一気に明るみに出た。「梨花女子大学事件」とも呼ばれる。

1955年3月24日、統一教会に入信し、大学当局の警告にも従わなかった教授、助教授5名が免職処分となる。統一教会は当時から韓国社会で熱心に布教活動を進めており、信者は社会エリート層にも深く浸透していた。大学内にも信者サークルが結成され、信者の教授が学生を積極的に勧誘するなどして、韓国社会でも問題化されていた。特にミッション系大学である梨花大当局はこの事態を重く見て調査を行っていたが、同年5月11日には、14名の学生を退学処分にした。

何か、因縁を感じます。
柳寛順(ユガンスン)女史と文鮮明先生。

そう、そういえば、1988年にアメリカのイーストガーデンに私がうかがった時、食卓でこの事件で辞められた梨花女子大学の女性の教授の方と、ご挨拶したのを思い出しました。すごく、優しい先生で笑顔で迎えていただいたのだけが今でも目に浮かびます。

長くなりましたので、一旦、送信させていただきます。

梨花女子大学事件については、また、コメントさせていただきます。



Posted by ちあき6500 at 2012年11月11日 21:38
梨花女子大学

韓国の女子大学でいちばん人気のあるミッション系の大学です。ソウル市西大門区にあり、新村地区という若者の街にあります。

私が最初に、梨花女子大学を訪れたのは、1986年の8月の夏のことでした。梨花女子大学の学生のH.Hさんと訪れたのです。

H.Hさんと知り合ったのは、その前の年の1985年の夏に、韓国学生訪日団を迎えて、私が随行取材担当をしていたからでした。当時、私は韓国語が話せなかったので、英語で会話していました。一週間近い日程で、成田空港でお迎えして、東京、京都、奈良、下関と移動し、下関から船でお別れしたのでした。

なぜかH.Hさんとは気が合い、グループでご一緒することが多かったのでした。H.Hさんは、72家庭の娘さんで、当時、二世の36家庭の約婚を受けて、孝進様の修練会にでられたばかりでした。

すごく、やさしいお嬢さんでしたね。
ふとしたことで、私の霊の親が離れてしまったことを話をしたら、じっと私の顔を見てくれて、英語で「私があなたの霊の親になってあげます」と言ってくれました。その時は何だか本当に嬉しかったですね。私はまだ当時23歳でした。

東京では、5人のグループで銀座を散策しました。夕方になり小雨が降ってきて、銀座4丁目の交差点を小走りに渡ったところで、傘もなく、ちょっと雨にぬれながら、銀座の夜のきらびやかなネオンを見回しながら、英語で「It’s a wonderful day.」とお互い言い合って笑いました。本当に嬉しかったでした。

奈良の鹿公園では、同じ5人のグループで芝生に座り、食事を囲みながらみんなでキリスト教の歌である「シロアム」という歌を歌いましたね。韓国の学生は、キリスト教の文化的基盤があるのだなと思い、すごいなと思いましたよ。
なんか、こんな兄妹のような人なつっこさは、韓国という国民性なのかと感心し、陶酔してしまいました。

そういった経緯で、私とH.Hさんとは連絡先を交換し、再会を誓ったのです。

そして、1986年8月、私は韓国ソウルに仕事で訪れた際に再会することになったのです。
私の宿泊していたホテルは清涼里にあって、そこから電話をしました。夏の暑い日差しの強い日だったのを思い出します。

一年ぶりに再会するよろこびに胸が高まりました。私は、ホテルのロビーから出て、今か今かと、H.Hさんが来るのを待ちました。ちなみに、このホテルは今はなく、今はロッテ百貨店になっています。

夏の日差しの地面の照り返しの向こうから、H.Hさんがやってきました。お互い、にこりと微笑み、握手をしました。国を越えての再会です。自分でも思いますが、まるで韓国ドラマのようですね。すでに、27年前に、私とH.Hさんは日韓の友情を実現していたのですね。

さて、私はソウルが初めてでしたので、H.Hさんに街を案内してもらうことにしました。ということで訪れたのが、梨花女子大学、彼女の母校でした。

清涼里からタクシーに乗り、東大門を通って行きます。すごいバスが多く交通量が多いなと思いました。韓国のタクシーは、ラジオの音楽が大音量で流れます。なんとなく演歌のような女性の愛の歌が異国を感じさせます。
一シックにすぎない私ですが、韓国の二世の方とも心情を交わすことができるのだなと、タクシーに二人で乗っていて、H.Hさんを見て思いました。


梨花女子大学に着きました。
若者の街である新村地区を歩き、ジュースを飲み、いろいろ話をし、彼女が大学内を案内してくれます。まだ、当時は、統一教会の信仰歴5年の若者だった私に、真のお父様(アボニム)の梨花女子大学事件などは、全く知りませんでした。

私は、H.Hさんとの思い出を、今でも私の信仰の支えとしています。H.Hさんがいなかったら、もしかしたら私は信仰を失っていたかもしれないからです。神さまは、必要なときに必要な人と出会わせてくださるのではないでしょうか。

20代前半の男女が何を語っていたのだろうかと、今、振り返ってみて思いますよね。夏だったので、ソフトクリームのアイスを買って食べながらキャンパスを歩いたのを覚えています。

そして、チャペルのところを通り、丘の上の長い階段を見下ろせる眺めのいいベンチに二人で座って、話をしました。
たわいもない話だったかもしれません。

そして、二人は別れていきました。
その後、翌年の孝進様のベルリン大会でも再会し、まだ分断されていたベルリンの壁の前で写真を撮りました。
しかし、それからはお互い、音信不通になってしまい、いつしか思い出となってしまいました。

ただ、今でも覚えているのは、韓国の夕日を見ながら、H.Hさんにいつの日か必ず会いに行くと神さまに誓ったのだけは、今でも忘れることはできません。

私は、2005年でしょうか。
約束は果たせないままでいましたが、当時がなつかしくなり、H.Hさんと語り合った日韓の友情の自分史を訪ねて、再び一人で梨花女子大学のこのベンチを訪れ、そして座りました。

確かに、梨花女子大学のベンチで、あの日の私たちがいたんだと。
それだけを確認したかったのです。


「いつも私のとなりに神さま」のブログオーナー様

なぜ、こんな私個人の話を長々と書いたのかといいますと、アボニムが梨花女子大学事件でどれほど悲しみがあったかということを、今の私は知っており、少しでも、私と梨花女子大学の学生であったH.Hさんの日韓の友情があったという事実が、アボニムの解怨になればと思い、書かさせていただきました。

私の話など、ささいなものかもしれません。統一教会ほど、日韓の友好を推進している団体はないと言えますよ。

最後まで、読んでいただきまして、ありがとうございました。







Posted by ちあき6500 at 2012年11月12日 02:45
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