2014年01月16日

「蕩減よ、ありがとう」と言えるまで 私たちの苦労と完全蕩減の違い?! 《蕩減とは何か2》


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先生もこの蕩減という枠の中から、
一歩も抜け出すことができない




昨日、蕩減を甘受し、感謝することの重要性、
まさに「蕩減よ、ありがとう」と言える信仰を持つことは、
神様の観点に立った正しい捉え方であると表現しました。

しかし、お父様の歩まれた道は
簡単に感謝し甘受することなどできない、
まさに「完全蕩減」の道だったのです。
それを、いかに越えることができたでしょうか。

1967年、お父様が来日された時、
原理大修練会で語れたみ言を紹介します。



(先生は)真正面からぶつからなければならない。

蕩減条件は衝突圏内において、
一対一でなければ完全蕩減はできないよ。

君たちは条件蕩減だけれども、
先生におきましては一対一の圏内で
(完全)蕩減する



そのことを史吉子先生が「原理に関するみ言の証」で、
端的に表現してくださっています。


ある日、私たち食口がお父様にお供して、
白雲台に登りました。
その時、お父様が杖を持って、
お父様が立っておられた所を中心に、
一回りぐるっと回りながら
円を描かれました。
そうしながら、

「先生もこの蕩減という枠の中から、
一歩も抜け出すことができない」


と言われました。


このみ言を読むだけで、
何だか、息が詰まりそうになります。
お父様の道は言葉では到底言い表せないような
過酷で熾烈な道であったのかを感じさせられます。

蕩減という枠から抜け出すことの出来ない道、
やはりお父様でなければ超えることのできない
まさに、完全蕩減の道であったのです。


白井局長は三つの観点で
お父様の完全蕩減の道を表現されています。

1、サタンと一対一で真正面から闘っていく
  方便の許されない厳格な道

2、神から見捨てられる立場にあっても、
  なお自ら進んで神に侍り奉る

3、神と一体となった心情圏をもって、
  心情的量によってサタンを自然屈服


3番の「心情的量」ということに関して
お父様は以下のように表現されています。



蕩減とは何であるかというと、
百以下のものをもって、
百と同じに認めてくれることです。

それは何の話かというと、
百年かかってやらなければならないことを
一年で終わらせることができるということです。

その条件が何かというと、
悲惨ということです。

定義は何かというと悲惨です。

悲惨であればあるほど良いのです。


☆ 

あなた方は「私たちの先生は素晴らしい」
と自慢したいと思っているでしょう。

しかし、私の何を自慢したいのですか。

私には自慢するものがありません。

私は悲惨でした。

悲惨そのものでした。




白井局長が以下のようにまとめています。

真のお父様のように
神様の心情と一致した方が
初めて「完全蕩減」を成すことができるのであり、
神様の心情を知らない人がどんなに苦労しても、
それは部分的な苦労であり、
本質的な完全蕩減とは関係ありません。
また、自分個人の蕩減とはなり得ても、
摂理をかけ、歴史を清算する蕩減とはなり得ないのです。


(つづきます)

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posted by ten1ko2 at 09:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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