2014年05月06日

12年5ヵ月! 後藤さんのその後は ──心の闇を越えた強さはどこからきたのか?! 


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この地に生きる人たちの中で、
本当の意味で神様に感謝を捧げる人はだれでしょうか?

言うに言えないほど凄惨な姿で出会うところ、
涙が交差するところでも感謝するとき、
神様と因縁が結ばれるのです。




米本和広氏のブログ「火の粉を払え!」に
後藤徹さんへのインタビュー続編が掲載されています。



充実したインタビュー内容ですので、
お時間のある方はご覧になってください。
その中でも
私が目に留まった箇所は以下のところです。


奥さんがこれまたなかなかの人なんです。
大学は食物栄養科を出ていて、調理師の免許を持っている。
なので料理が実にうまいのです。
監禁中に夢見た7種の丼物がリクエストに応えて次々と目の前に出てくる。
これが夢想して食べるものより、はるかにうまい。
当たり前ですがね。(笑)

それと、パソコンが得意なのにも助けられました。
裁判での書面は気が遠くなるぐらいに膨大です。
それを奥さんが専属秘書のように実にてきぱきと処理してくれる。
裁判で戦う私の緊張をいつも気遣い、慰め励まし応援してくれます。
料理もパソコンも・・・神を感じましたね。

家の近くに荒川の土手があって、
天気のいい日にそこに2人で出かけました。
そして、ビデオを回しながら
2人で大きくなったおなかに向かって語りかけました。

神経を逆撫でされるような陳述書を読むことのストレス。
それに反論書面を書くために、
無意識に思い出したくないと思っていた嫌なことを
必死になって思い出さなければなりません。
だから、荒川土手の散歩は精神的にとても良かった。

あのときのあの場面には誰がいたのか。
どんな表情をしていたのか。何と言われたのか。
いい思い出ではないゆえ、記憶を辿るのは苦痛を伴いました。
集中力と精神力を消耗する作業です。
原稿用紙の前に向かうときは、「よし、やるぞ!」
と気合を入れて取りかかりました。

緊張を強いられる日々でしたが、
親子3人で散歩に出かけることで安らぎを得たし、
ひととき裁判のことも忘れることができました。


再祝福を受け、奥様と家庭を持たれて、
また子供さんを授かったということが
後藤さんにとっての最大の支えになったと思います。

冒頭の写真は奥様とお子さんと
三人で土手を歩いているところですが、
家庭を持てば、当たり前のような光景が
とても奇跡的な場面であり、
見ているだけで感動が伝わってきます。

やはり、過去を回想すること、
拉致監禁の体験を書き記すということは
簡単なことではありません。

それが後藤さんのように12年5ヶ月という
気の遠くなるような長い期間ならなおさらのこと。
また、たとえ数日でも親族によって
拉致監禁を受けたということによる心の傷は、
なかなか癒されるものではないのです。

「自分の過去の記憶から消し去りたい。
この心の闇は誰もわからないだろう・・・」
そのように体験者は思うのです。

そういう意味で、心情を共有するということ、
同じ体験者同士で交流することは重要かと思います。
地区の体制が3月から変わりましたが、
交流会がいまだに行われていません。
何度か再開のお願いをしましたが、
なかなか事情が事情なだけに難しいようですね。
ちょっと残念ですが。。。

後藤さんも言われているように、
決して関心がないわけではないけれど
忙しい教会員たちに向けて、私も少しずつでも
拉致監禁問題について、情報を
発信し続けていきたいと思うのです。

もう一つ、印象的な部分を紹介します。



彼らは、自分たちが拉致監禁という
重大な犯罪を行ったことをよく分かっています。
しかし、統一教会信者だった自分たちが、
拉致監禁という方法で脱会することができたので必要悪だと思っている。

兄が監禁中に思わず叫んだことがあります。
「じゃあ、(脱会させるのに)
他にどういう方法があるって言うんだ!
教えてくれ!」
と語った言葉にそのことがよく現れています。

彼らは自分の考えと立場を絶対正義と見なし、
こちらの思想信条を一切認めず、
病原菌のごとく唾棄して
それを矯正するためであれば犯罪や人権侵害までも
必要悪として正当化し、
結果として相手の人生を破壊してしまう。
たとえ兄妹でもこのような蛮行を絶対に許すことはできない。
だから、私は裁判に踏み切りました。

しかし、彼らだけでは、あそこまで長期間監禁を続けることは無かったと思う。
10年以上もの監禁が続いたのは彼らの背後にあって
宮村と松永が教唆・指導していたからこそです。
12年間の長い監禁生活の結果、彼らの人生計画もすっかり狂ってしまった。
 


人には誰しも「良心」があります。
ですから、自分の子供、兄妹を羽交い絞めにして、
車に押し入れて、ホテルに閉じ込めるという行為は
良心が「本当はよくないとは思うけど・・・」
そのように叫んでいるのです。
ですから、拉致監禁をした人にとっては
共通の思いなのではないでしょうか。

私も二度目の拉致監禁のとき、
実家で両親と弟、親族から羽交い絞めにされ、
手足を縛られているとき、父が
「本当はこういうことをしたくないんだけど」
そして、母は何度も「ごめんね」
と言っているのが、頭に焼き付いて離れません。。。

「必要悪」として、自分を納得させて
監禁をする親族もまた加害者でありながら、
被害者なのだと思います。

そういう意味では、改めて、親族をそこまで
行動に踏み切らせるように指導する
反対活動家、反対牧師、反対弁護士たちは、
恐ろしいし、罪深いと感じます。
以前何度か、私が見聞きした牧師たちの会話を紹介しましたが、
反対牧師同士でも
「このやりかたはよくない」という思いは持っているのです。

彼らにもおそらく良心の呵責というものは、
ないはずはないのですが、こういうことを重ねるうちに
だんだん麻痺していって、感じなくなっているのでしょうか。


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お父様のみ言

この地に生きる人たちの中で、
本当の意味で神様に感謝を捧げる人はだれでしょうか?
文明国家や文化生活をする人たちより、
発展途上国の不便な生活環境の中で
受難の道を行く運命になりながらも、
神様に侍って生きる人がいれば、
彼は不幸な人ではありません。
そこで神様と心情的因縁が結ばれるのです。

喜びと悲しみの涙が重なり合う心情の因縁は、
遊び回るところでつくられるのではありません。
血を流して悲惨に死んでいくようなところでつくられるのです。
言うに言えないほど凄惨な姿で出会うところ、
涙が交差するところでも感謝するとき、
神様と因縁が結ばれるのです。


【文鮮明先生のみ言葉】
天運を呼ぶ生活
感謝 より
 


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