2015年01月10日

十字架を背負うのは誰か、天国に行くのは誰か?! 2015、真の母と越えるゴルゴダ!!



Luke23bカルバリ.jpg


新年は、青羊の年といいます。
お母様は羊(年)です。


1.4のみ言



今朝の訓読会で、平和経を訓読していたら、
ある箇所に目が留まりました。



dore十.jpg


人類歴史上、イエス様の見方に立った
最後の人は誰だったでしょうか。

それは、ペテロでもなく、イエス様の父母でもなく、
ユダヤ教でもありませんでした。
ただ一人、右側の強盗だったのです。

なぜならば、右の強盗は、内容は知りませんでしたが、
死の場において、その生命が尽きるときまで、
イエス様に侍る方向性を備えたからです。

しかし、ペテロやヤコブのような十二使徒たちは、
内容を知っていながらも、そして一つの方向性を
備えるという誓いまでした人たちでありながらも、
最後まで、その方向性を備えることができませんでした。

ですから、右の強盗が、人類の歴史上において、
地を身代わりして、未来を再起させることのできる
中心的な存在になったという事実を知らなければなりません。


(「神様のみ旨から見たイエス様の生涯と
終末である現代に対する神様の警告」より一部抜粋)



聖書にはクレネ人シモンの記述もあります。

そこへ、アレキサンデルとルポスとの父
シモンというクレネ人が、
郊外からきて通りかかったので、
人々はイエスの十字架を無理に負わせた。


(マタイによる福音書第15章21節)


彼は、たまたまイエス様がゴルゴダに向かい、
十字架を背負われている場面に出くわしました。
「無理に」と書いてはありますが、
兵士の要求を受け入れて、背負ったのだと思います。

右の強盗も、クレネ人シモンも
ともに、ほんの一瞬イエス様に出会ったに過ぎません。
しかし、その出会いを受け入れたからこそ、
聖書に永遠に記録されているのです。

ペテロやヤコブのような弟子たちは、
イエス様に侍ってはいきましたが、
一番大切な時、イエス様が十字架を背負い
架けられた時、離れていってしまったのです。


昨日は、2015年最初の還元祈願礼式を行いました。
本来は教会長がされるのですが、
突然、会議になったので、私が主礼を担当することになりました。
半日準備する中で、2015年の「時」の重要性を感じ、
それを話させていただきました。

かつて、このみ旨において、
「真の父母様のため」と思って、
全身全霊をかけて歩んだことも確かに貴重なことです。
しかし、今この時、重要なこの時を
神様と真の父母様と、
ともに歩むということがどれほど貴重なことでしょうか。

右側の強盗もシモンも何の信仰を持っていないのに、
イエス様が十字架につく直前にイエスさまに侍った
そのことゆえに、聖書にも覚えられているとすれば、
この2020年までの期間、
真のお母様が最後の十字架の道を歩まれている
といっても過言ではないこの時に、
真の父母様に侍ることが出来ることを感謝しつつ、
天の願われる歩みをしていきたいと思うのです。


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posted by ten1ko2 at 10:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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