真のお母様が四大聖物を下賜してくださったのが、
ご聖婚56周年記念式でのことでした。
その時、元老食口の証しの一人として、
朴普煕先生が証しをされました。
「とても懐かしいなぁ」と思いつつ、
朴先生の導かれた証しを知りたいな、と思いました。
ちょうど、「めざそう!天国家庭」という本に掲載されていましたので、
何度かに分けて、紹介させていただきます。
朴普煕先生が伝道されたのは、梨花女子大事件の2年後
韓国中に統一教会のデマが広がっていた頃です。
日本の伝道は始まってもいませんでした。
☆
一九五七年の二月、私はソウルで陸軍将校として、
アメリカの将軍に仕えていました。
その時、駐韓米軍の司令部で働いておられた
金永雲先生に伝道されました。
入教して四十年が過ぎました。
み言葉に接した時に、私は
「この内容が正しいだろうか。学者にも尋ねてみよう」とか
「評判がどういうものか」という考えが、全くありませんでした。
統一教会と全然知らないで、講義に招かれた夜に
「統一原理」の前編を聞いたのですが、
素晴らしいみ言葉に感動の至りでした。
☆
私は、日本の支配下から一九四五年の解放、独立、
そして韓国動乱を体験してきました。
韓国動乱の時は陸軍士官学校の生徒として、
動乱勃発一日目から戦場で戦いました。
そういう人生を通じて、
九死に一生を得たことが一度だけではありません。
二十一歳の時から血まみれの戦場で生き延びながら、
「人生とは何か」「神様はいらっしゃるのか」
「本当の生き方はどういうものか」「死後に何があるのか」
ということに対して、「本当の信仰をもたなければならない」
と思うようになりました。
それであちこちの教会にも行ってみたり、
説教を聞き、聖書を読んだりしながら、
私なりに正しい道を探そうと、さまよい、
死に物狂いで努力をしてきました。
☆
それで原理を聞いたその瞬間から、
「私が生きる道はこれだ!」と悟りました。
「私が行くべき道にようやく導いてくださった」と、
神様に感謝をささげました。
教会の名前は何でもいい、教会はどこにあってもいい、
いくらみすぼらしくても問題ないと思ったのです。
この真理こそ私が求めてきた真理でした。
☆
翌日の夜、金永雲先生が私一人のために
特別に後編の講義をしてくださるというので、
その夜は興奮して家に帰りました。
ところが、翌日、出発の準備をして夕食を食べている間に、
ご飯がのどを通らないくらい大変な熱が出てきました。
七時が約束でしたが、目まいがするし、
熱が四〇度ぐらいに上がり、もうどうにもなりません。
それでご飯を食べず、妻が準備した寝床にそのまま倒れ込みました。
時計を見ると、七時半になっています。
金永雲先生が私を待っていることを考えると申し訳ないのですが、
あの時は電話もないので、連絡もできません。
妻が「このような状態では絶対に行かないでください」
というのを振り切り、車を呼んで、約束の場所に行きました。
約束どおり金永雲先生の後編の講義が始まりましたが、
私は苦しくて何を聞いているのか全然頭に入りません。
毛布をかけてぶるぶる震えながら、我慢して二時間ほど聞きました。
しかし、朦朧としながらも、韓国にメシヤが現れるという結論で終わった時、
私は何とも言えない興奮を感じました。
そして「またもう一回会いましょう」と別れるその瞬間、
今まで頭が割れるほど痛かったのが、すっきりとして、
いつ私が病気だったのかと思われるほど完全によくなりました。
その後三時間、金永雲先生と会話を交わした感動は、今でも忘れられません。
☆
その時、私はまだ統一教会の名前も聞いていませんでした。
「どこの教会ですか」と言っても、教えてくれません。
金永雲先生はにこにこ笑いながら、
「そんなに急がなくてもよろしゅうございます」と言ってなだめるのです。
私がこんなにも興奮して、早く教会につながりたいと思っているのに、
なぜこう金永雲先生は躊躇するのかと不思議に思いました。
仕方なく家に帰りましたが、その夜はうれしくて一睡もできませんでした。
☆
真のお父様との出会い
真のお父様との出会い
翌日、陸軍少佐の私は、部下に
「金永雲先生の教会がどこなのか調べなさい」と命令しました。
それが「統一教会」だということと、
教会は青坡洞にあるということが分かりました。
そして水曜日、軍服を着た私は青坡洞に一人で現れたのです。
しかし道がよく分からないし、看板もありません。
それで近くの店の人に、「統一教会はどこか分かりますか」と聞いたら、
「ああ、統一教会ですか」と、
じろりじろりと見ながら教えてくれました。
「向こうを回って角を曲がったら小さな入り口があります。
そこを行って、右に曲がったら小さな門がありますから、
その門を押して入りなさい」と言うのです。
昔は入り口がなく、看板もありませんでした。
そのとおりに行ってみると、旧本部教会がありました。
☆
その夜、初めて統一教会の礼拝に参加しました。
二月で大変寒く、ストーブはあっても火はついていません。
五、六十人の若者たちが、ひざまずいて座って、聖歌を歌っていました。
若者の聖歌の歌声は心霊に深い感動を与えてくれました。
私は一番前に座って、説教を聞いたのです。
説教が終わると、私のそばに座っていて質素な軍人の
ジャンパーを着ていた方が立ち上がって、み言葉を語り始めました。
「この若いお方はだれだろうか。眼光が鋭く、
あまりにも威厳がある」と思いました。
その時、礼拝堂の後ろのいすに座っておられた
劉孝元先生が教会の責任者だと、私は思っていました。
☆
礼拝が終わると、金永雲先生は笑顔で握手をしてくれました。
そして「どうやって来たのですか」と言うのです。
それで「案内がなくても、私は情報将校だから、
そのぐらいのことはすぐ分かります。
『また来てください』と言ってくださるのが待てなくて、
自分で探してやってきました」と私は答えました。
すると金永雲先生は「あなたは特別です。先生にご紹介しましょう」
と言って、私をお父様の所へ連れていってくれました。
そこでごあいさつをした方がお父様で、
先ほど私の前でみ言葉を語られた質素な方だったのです。
お父様は力強い握手で、「あなたの話は金永雲先生からよく聞いていました。
部屋に入りましょう」とおっしゃいました。
それが、私とお父様との出会いです。
☆
その日からできるだけ、私は教会に時間を費やしました。
昼は軍人として勤務し、夜は毎晩教会に行って、お父様のみ言葉を聞きました。
朝も早く教会に行って、五時のお祈りをして、教会の掃除をしました。
というのは、私は肩には将校の階級章がついていましたが、
統一教会から見たら二等兵だったからです。
私は毎朝、教会の便所掃除をしました。
それから礼拝堂を掃いて水拭きしました。
外に出たら将校、中に入ったら二等兵という気持ちで、
教会の掃除をするのが、当時の楽しみでした。
☆
朴先生の霊の親は、
アメリカ開拓をされた金永雲先生でした。
青年将校だった朴先生を導いたのですから、
凄まじい精誠の元、伝道されたのだと思います。
また、朴先生ご自身も
「真理に出会った!」その揺るぎない一点において、
迫害を受けていたであろう、統一教会に出会い、
み旨の道に邁進していかれたのです。
明日に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、ブログの記事においては
無断転載はお断りいたします。
曲解や悪用ととれる引用も、
差し控えてくださいますよう
よろしくお願いします。
(もちろん、善なる目的で
使用することに関しては
その限りではありません)
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