2016年06月29日

(証し) 青年将校、朴普煕、伝道される!! お父様との出会いは?!


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真のお母様が四大聖物を下賜してくださったのが、
ご聖婚56周年記念式でのことでした。

その時、元老食口の証しの一人として、
朴普煕先生が証しをされました。

「とても懐かしいなぁ」と思いつつ、
朴先生の導かれた証しを知りたいな、と思いました。
ちょうど、「めざそう!天国家庭」という本に掲載されていましたので、
何度かに分けて、紹介させていただきます。

朴普煕先生が伝道されたのは、梨花女子大事件の2年後
韓国中に統一教会のデマが広がっていた頃です。
日本の伝道は始まってもいませんでした。


一九五七年の二月、私はソウルで陸軍将校として、
アメリカの将軍に仕えていました。
その時、駐韓米軍の司令部で働いておられた
金永雲先生に伝道されました。

入教して四十年が過ぎました。

み言葉に接した時に、私は
「この内容が正しいだろうか。学者にも尋ねてみよう」とか
「評判がどういうものか」という考えが、全くありませんでした。

統一教会と全然知らないで、講義に招かれた夜に
「統一原理」の前編を聞いたのですが、
素晴らしいみ言葉に感動の至りでした。


私は、日本の支配下から一九四五年の解放、独立、
そして韓国動乱を体験してきました。
韓国動乱の時は陸軍士官学校の生徒として、
動乱勃発一日目から戦場で戦いました。

そういう人生を通じて、
九死に一生を得たことが一度だけではありません。

二十一歳の時から血まみれの戦場で生き延びながら、
「人生とは何か」「神様はいらっしゃるのか」
「本当の生き方はどういうものか」「死後に何があるのか」
ということに対して、「本当の信仰をもたなければならない」
と思うようになりました。

それであちこちの教会にも行ってみたり、
説教を聞き、聖書を読んだりしながら、
私なりに正しい道を探そうと、さまよい、
死に物狂いで努力をしてきました。


それで原理を聞いたその瞬間から、
「私が生きる道はこれだ!」と悟りました。
「私が行くべき道にようやく導いてくださった」と、
神様に感謝をささげました。

教会の名前は何でもいい、教会はどこにあってもいい、
いくらみすぼらしくても問題ないと思ったのです。
この真理こそ私が求めてきた真理でした。


翌日の夜、金永雲先生が私一人のために
特別に後編の講義をしてくださるというので、
その夜は興奮して家に帰りました。

ところが、翌日、出発の準備をして夕食を食べている間に、
ご飯がのどを通らないくらい大変な熱が出てきました。
七時が約束でしたが、目まいがするし、
熱が四〇度ぐらいに上がり、もうどうにもなりません。
それでご飯を食べず、妻が準備した寝床にそのまま倒れ込みました。

時計を見ると、七時半になっています。
金永雲先生が私を待っていることを考えると申し訳ないのですが、
あの時は電話もないので、連絡もできません。
妻が「このような状態では絶対に行かないでください」
というのを振り切り、車を呼んで、約束の場所に行きました。

約束どおり金永雲先生の後編の講義が始まりましたが、
私は苦しくて何を聞いているのか全然頭に入りません。
毛布をかけてぶるぶる震えながら、我慢して二時間ほど聞きました。

しかし、朦朧としながらも、韓国にメシヤが現れるという結論で終わった時、
私は何とも言えない興奮を感じました。

そして「またもう一回会いましょう」と別れるその瞬間、
今まで頭が割れるほど痛かったのが、すっきりとして、
いつ私が病気だったのかと思われるほど完全によくなりました。

その後三時間、金永雲先生と会話を交わした感動は、今でも忘れられません。


その時、私はまだ統一教会の名前も聞いていませんでした。
「どこの教会ですか」と言っても、教えてくれません。
金永雲先生はにこにこ笑いながら、
「そんなに急がなくてもよろしゅうございます」と言ってなだめるのです。

私がこんなにも興奮して、早く教会につながりたいと思っているのに、
なぜこう金永雲先生は躊躇するのかと不思議に思いました。
仕方なく家に帰りましたが、その夜はうれしくて一睡もできませんでした。



真のお父様との出会い


翌日、陸軍少佐の私は、部下に
「金永雲先生の教会がどこなのか調べなさい」と命令しました。
それが「統一教会」だということと、
教会は青坡洞にあるということが分かりました。
そして水曜日、軍服を着た私は青坡洞に一人で現れたのです。

しかし道がよく分からないし、看板もありません。
それで近くの店の人に、「統一教会はどこか分かりますか」と聞いたら、
「ああ、統一教会ですか」と、
じろりじろりと見ながら教えてくれました。

「向こうを回って角を曲がったら小さな入り口があります。
そこを行って、右に曲がったら小さな門がありますから、
その門を押して入りなさい」と言うのです。

昔は入り口がなく、看板もありませんでした。
そのとおりに行ってみると、旧本部教会がありました。


その夜、初めて統一教会の礼拝に参加しました。

二月で大変寒く、ストーブはあっても火はついていません。
五、六十人の若者たちが、ひざまずいて座って、聖歌を歌っていました。
若者の聖歌の歌声は心霊に深い感動を与えてくれました。
私は一番前に座って、説教を聞いたのです。

説教が終わると、私のそばに座っていて質素な軍人の
ジャンパーを着ていた方が立ち上がって、み言葉を語り始めました。

「この若いお方はだれだろうか。眼光が鋭く、
あまりにも威厳がある」と思いました。
その時、礼拝堂の後ろのいすに座っておられた
劉孝元先生が教会の責任者だと、私は思っていました。


礼拝が終わると、金永雲先生は笑顔で握手をしてくれました。
そして「どうやって来たのですか」と言うのです。

それで「案内がなくても、私は情報将校だから、
そのぐらいのことはすぐ分かります。
『また来てください』と言ってくださるのが待てなくて、
自分で探してやってきました」と私は答えました。

すると金永雲先生は「あなたは特別です。先生にご紹介しましょう」
と言って、私をお父様の所へ連れていってくれました。
そこでごあいさつをした方がお父様で、
先ほど私の前でみ言葉を語られた質素な方だったのです。

お父様は力強い握手で、「あなたの話は金永雲先生からよく聞いていました。
部屋に入りましょう」とおっしゃいました。
それが、私とお父様との出会いです。


その日からできるだけ、私は教会に時間を費やしました。
昼は軍人として勤務し、夜は毎晩教会に行って、お父様のみ言葉を聞きました。
朝も早く教会に行って、五時のお祈りをして、教会の掃除をしました。

というのは、私は肩には将校の階級章がついていましたが、
統一教会から見たら二等兵だったからです。

私は毎朝、教会の便所掃除をしました。
それから礼拝堂を掃いて水拭きしました。
外に出たら将校、中に入ったら二等兵という気持ちで、
教会の掃除をするのが、当時の楽しみでした。



朴先生の霊の親は、
アメリカ開拓をされた金永雲先生でした。

青年将校だった朴先生を導いたのですから、
凄まじい精誠の元、伝道されたのだと思います。

また、朴先生ご自身も
「真理に出会った!」その揺るぎない一点において、
迫害を受けていたであろう、統一教会に出会い、
み旨の道に邁進していかれたのです。

明日に続きます。


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