2016年07月09日

「7たびを70倍するまで許す」! イエスは許したのか?! 《金元弼先生》



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金元弼(ウォンピル)先生の「伝統の源流」
今回は、「七たびを七十倍するまでに許す」です。


イエス様には十二人の弟子がいました。

その第一弟子のペテロがイエス様に
「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、
幾たびゆるさねばなりませんか。
七たびまでですか」と質問した時に、

イエス様は「七たびを七十倍するまでにしなさい」と
言われました。
(マタイ一八・二一〜二二)


ということは、完全に許しなさいということなのです。
結局はみな許し、何遍でも許しなさいということです。

その人が神に喜ばれる人になるまで、
何十遍、何百遍でも許してあげなさいということなのです。


そう言われた時に、ペテロはどういうふうに考えたでしょうか。
どういうふうに考えたと思いますか。

何遍許したら良いでしょうかと聞いたペテロは、
「七たびを七十倍するまでにしなさい」という答えを聞いた時、
あまりにもけた違いなので、ぼう然としたというのです。
ピンとこなかったというのです。

メシヤのみ言ですから、限りなく許さなければならないのだ
とペテロは考えたけれども、それ以上は考えられなかったのです。

それ以上は考えられなかったとは、どういうことでしょうか。
ペテロに対して、「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言うからには、
イエス様にも、許し難い怨讐があって、
そういう怨讐を七を七十倍する以上許したという世界があったということを、
ペテロは考えなかったというのです。


皆さんもそうでしょう。

皆さんが私に「Aさんが私をいじめます。
どうしたら良いでしょうか」と尋ねた時に
「永遠にその人を許しなさい」と答えたとすると、
皆さんは私に対してどう考えますか。

えらいことを言うなあと考えるでしょう。
“ああ許さなければいけない、
そのように許さなければいけないかなあ”
とそう考えるでしょう。
それ以上のことは考えないと思います。


ところがイエス様がそのようなみ言を下さったからには、
イエス様にそういったような過去、現在の内的世界があったというのです。
しかし、私たちはそれを知ろうとしないのです。

イエス様御自身、そのような世界に悩まれ、
そして勝利された世界があったからこそ、
ペテロにそう言われたのです。
イエス様は勝利したからこそ、そう言いきれたというのです。


皆さん、イエス様はいつ許したのでしょうか。
考えてみてください。

イエス様にとって本当に許し難い事件とは、
どんなものがあったのでしょうか。

マリヤがそうでした。
ヨセフがそうでした。
兄弟がそうでした。
洗礼ヨハネもそうでした。
イスラエルがそうでした。

理解できますか。


神の前に、メシヤを証して、そして否定していった洗礼ヨハネは、
イエス様の前にあっては怨讐の中の怨讐であったというのです。

個人的に考えればそうではないのですが、
神のみ旨を中心としたときには、そう考えざるを得ないというのです。

人々の前で、イエス様をメシヤだと証しながら、
後でイエス様を疑ったのです。
そして弟子を遣わして「本当に、あなたは来るべきメシヤなのですか」
と質問した洗礼ヨハネは、神のみ旨を中心として見れば、
本当に許し難い怨讐中の怨讐であったというのです。

メシヤが十字架につかれたその遠因が洗礼ヨハネだったのです。


マリヤは、自分が生んだ方がメシヤである、
人類のメシヤであるということをよく御存じでした。
イエス様は、そのマリヤを怨讐とは考えなかったというのです。
許したのです。


ユダという弟子を考えてみなさい。

イエス様を売ったユダに出会った時に、イエス様から離れ、
イエス様を売るような兆候が前からあったというのです。

ですからイエス様は、何度も話してあげたのです。
こうしてはいけないと教えてあげたのです。
それをユダは聞き入れなかったのです。
そういう期間を通じてサタンと手を結んでいったのです。

しかし、メシヤはそういうことを全部許してあげたのです。
そればかりでなく愛したのです。
それぞれの永遠の生命に対して非常に心配しておられたのです。


ですから、ペテロはイエス様に
「七たびを七十倍するまでにしなさい」と言われたその瞬間に、
イエス様のそのような内面の世界を知らなければなりませんでした。

そしてこんなふうにして許してくださったイエス様であり、
自分の事情よりも大きい事情、自分の心情よりも深い心情、
自分の痛みよりも大きな痛みを、
イエス様がもっておられるということを知った時には、
自分の心が痛いからといって、その人を許せないとは言えないのです。

神様も、イエス様もこれを耐え忍んだのに、
どうして私は耐え忍ばないでいられるだろうか、
とこう思うようになるのです。



イエス様は神様と全く同じように真の愛をもって
それを実践していかれました。

ですから、「七たびを七十倍・・・」
そのようなみ言を語られたのでしょう。

旧約聖書においては、
「目には目を、歯には歯を」
そのような教えですから、
神様を親として侍っていなければ、
このような言葉は出てこなかったと思います。

そのイエス様の精神を
真の御父母様はそのごとく受け継いでおられるのです。

そのことに関してのみ言は
明日に続きます。。。


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posted by ten1ko2 at 06:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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