2016年09月29日

お金を渡せる喜び?! お父様と一番近かった日々、ボンネッコル時代!!  《金元弼先生》


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金元弼(ウォンピル)先生のみ言、『生活伝道 真の父母様に倣う伝道の精神』
今回は「釜山(プサン)での避難生活」です。


避難生活なので生活基盤は何もなく、食口たちもほとんどいなかった時代です。

平壌で因縁のあった食口たちが時々訪ねてくる程度であって、
先生と一緒に生活する状態ではありませんでした。

そこで先生は「原理原本」のすべてをまとめられたのです。


その当時、私は生活基盤をつくるために、
アメリカの軍人キャンプで仕事を見つけて働きました。

ある時、私がいたずら半分に風景の絵を描いて先生にお見せしました。
先生はそれをご覧になって、一言何気なく
「どんどん絵を描くようにしなさい」と言われました。

そしてある時、軍人キャンプの私が働いている所に、
絵を描く人が人事になってきました。
この人が私に絵を描くことを教えてくれたのです。

その人は毎日の仕事が終わると、夕方から夜にかけて、
アメリカ兵の持っている家族写真などを絵に描いてお金を稼ぐ専門家でした。
その人が私に勧めてくれたので、私も描き始めました。
こうして、先生の何気なく言われたお話が現実化していったのでした。

私は朝仕事場に出て夕方帰り、夕方から絵を描き始めて夜までどんどん描き、
次の朝早くそれを持ち主に渡してお金をもらうようになりました。


当時、先生は「原理原本」を書き終えられ、
み言をどんどん伝えておられる時でした。
私たちが定着してくると、神の啓示とかさまざまな因縁を通して、
再臨の教えを求める人々が続々と小さな小屋に集まってきました。

先生は、そういう人々が来ると、
その小さな小屋で朝からずっとみ言を語ってあげました。

先生は私が帰ってくるまではたいてい伝道され、
私が帰ってくると私の仕事を助けてくださいました。


一緒に寝ていると、真夜中に、電灯もない真っ暗い中で、
すすり泣く声をたびたび聞きました。
その声に起こされて先生のほうを見ると、
暗い中で先生がひざまずいてお祈りしている姿がありました。

ある時は聖歌や讃美歌を何度も何度も繰り返しながら歌っておられ、
私もびっくりして起きることがありました。

ある時は寝ている私を起こされて、
朝の三時か四時ごろに一緒に丘に登り、先生がお祈りをされました。

またある時は、「原理原本」を書かれている時、
深く眠っている私を起こされて、「書くものを準備しなさい」と言われました。
私が灯を準備していると、
先生は「これから私が語ることを書き取りなさい」と言われ、書いたこともあります。


私が仕事場に朝出ると、先生はお一人で食事を作って食べられました。

当時私たちが建てた家というのは、人家のない、村の墓地のふもとで、
水道も井戸もありませんでした。
そこで先生は泉を探し、先生ご自身が土を掘りました。
その水がとてもおいしいといって、
婦人たちがたくさん来て水を汲んでいきました。


そういう中で私は絵を描いていました。
人々がどんどん来るのですが、
この人たちは本当に道を求めて生活する宗教人ですので、
お金も何も持っていないのです。

そういう人に先生は温かくみ言を与え、
服を買ってあげたり、お米を買ってあげたり、お金をあげたりされていました。
そうするとどんどん出費が多くなっていくのですが、
そうすると私の絵の注文もそれに比例して増えていきました。

私は先生にそのお金を差し上げるのが一つの大きな楽しみでした。
二枚描いたら二倍、三枚描いたら三倍になって収入がどんどん増えていきます。
それが私としては非常に楽しみでした。

こういうことを考えてみると、先生がセンター・リーダーで
私はファンダレイジングの責任者です。
私としてはファンダレイジングが責任分担ですから、
実績をどんどん上げて先生が伝道できるように支える仕事です。


私が夕方に帰ってきて絵を描き始めると、
キャンパスを準備しなければなりませんでした。
ところが先生は、その時になって準備するのでは間に合わないということで、
自ら昼間にそのキャンパスを全部準備してくださいました。

絵を描く仕事は最初は時間がかからなかったのですが、
その数が増えるに従って、次の朝
私が出発しなければならない六時直前までかかることがありました。
普通は一時か二時までかかりました。

先生は最初は、私が絵を描く時には常に私のそばにいて、
全部描き終わるまで見守ってくださり、
私が寝る時にはそれを全部荷作りしてくださり、
朝になると私を起こして、
それを持っていくように支度をしてくださいました。

絵を描くことは私の責任分担ですから、
先生はそれをしなくてもいいにもかかわらず、そうしてくださったのです。
最初はそばで見ながら「これはこう」「あれはこう」と指導してくださいました。

ところが注文がたくさんになって早く描かなければならないので、
背景の色を先生がつけてくださるようになりました。

その次には衣装を担当してくださいました。
そしてある時はまだ時間が足らなくて、髪の毛も担当してくださいました。
ですから私はただ顔だけ描いたのです。


ある時霊能者の食口が夜遅くまでいて、泊まらなければならないことがありました。
そのおばさんは非常に疲れていたので横になり、布団も何もかけていないのです。

そうすると先生は霊能者のおばさんに、
「若い者がこのように働いているのに、そのように横になってはいけない。
横になりたいなら、その壁に背中を当てて休みなさい。座って寝なさい」
と言いつけられました。

こういうことを考えてみると、先生は仕事をすることは当たり前で、
それは全部自分がしなければならないという考えでおられたのです。
ですから私が絵を描いたというより、
先生が描かれたと言っても過言ではないのです。



先回も書いたと思うのですが、
お父様とともに過ごされた金元弼先生が
本当に羨ましくてなりません。。。

そして、元弼先生の描かれた似顔絵、
もっと欲を言えば、お父様も背景を塗られたという
その絵は残っていないのかな、と思います。

元弼先生は、絵が得意だったと思うのですが、
趣味ではなく、お父様のため、
生活のために描かれたので、
晩年の作品もないのかもしれないですね。

まぁ、それはともかくとして。。。
夜中、元弼先生が休まれている時、
お父様の祈りの声、聖歌を歌う声で、
目を覚まされたことがあるといいます。
お父様がどれだけの祈りを捧げられたのか、
その切実な思いが伝わってきます。

2020年に向けて、
私たちもそんな心情を相続して
歩むときなのだ。
そのことを思わされるのです。


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