2017年09月29日

好き嫌いで決めるのは信仰ではない?! 大きな願いには、大きな忍耐! 《元弼先生》天国7



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金元弼先生のみ言、
昨日の祈りについてに続き
まさに信仰のエキスを話してくださっています。
今日は、「忍耐の必要性」です。


それから、大きいことはすぐには実らないのです。

神の復帰摂理はもう何万年です。
新人(ホモサピエンス)が出てきてから、三、四万年くらいと言われていますが、
それは、アダムとエバの堕落から三、四万年くらいということだと思います。

その間、神は本当に一日千秋の思いで、ずっと耐え忍んでこられたのです。
その忍耐がなかったら、神の復帰摂理はないのです。
そうでしょう?

 耐える、忍ぶ、これがなければ、摂理というものはあり得ません。
ですから私たちも同じなのです。


私たちも目標は天国復帰とか、地上天国建設とかありますが、
それは結局、お祈りや努力もすべて必要ですけれども、忍耐が必要です。
忍耐なしには、何も結果が来ないのです。
そうでしょう? 

ですから苦労をいかに耐え忍ぶかです。
同じ苦労でも、耐えられないからと、途中でやめればそれで終わりです。
しかしいくら苦しくても、それを乗り越えて、耐え忍んでいけば、
最後の目標点に到達できます。

ですから、忍耐というのは、信仰生活に絶対必要です。
忍耐のない信仰生活というのは、あり得ないのです。

大きいことを目標にすればするほど、大きい忍耐が必要なのです。


それから、自分の好き嫌いで決めるのは信仰ではないのです。

信仰というものは何かというと、神のみ旨に従っていくことです。
自分の思うとおりにやることではなくして、
神の思うとおりにやるということ、これが信仰です。

ですから自分の考えを捨てることが信仰なのです。
自分個人を中心とした考えを捨てて、
もっと大きい神の願いに従っていくこと、これが信仰です。

今私たちにいろいろと問題が起こるとすれば、結局、これがなっていないからです。
全部そうです。問題はすべてそこに帰着するのです。

天国創建のために 
1986年4月4〜7日 
ドイツ・カンベルグ修練所(日本人修練会)



「自分を捨てる信仰」というのは、
昨日の祈りの話で、本心を研ぎ澄まして、
神様の思いを感じることに通じると思います。

人間堕落に始まって、今ある大小様々な問題も
すべて、神を離れたことによるということです。

自分の不信仰は置いておいて、
問題ばかり嘆いても、仕方がありません。

孝情を尽くしていきたい。
私の思いが、父母の思い、天の思いと
完全に一致していかなければならないと思うのです。

明日、もう一日続きます。。。





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posted by ten1ko2 at 12:48 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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