2017年10月08日

幸せになるためには、神様が必要?! 2つの精誠・前 《阿部局長のweb説教》



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☆真のお母様 9.12☆


阿部局長が「幸せを実現する二つの精誠」
と題して、Web説教を語られています。
一部を省いて紹介させていただきます。


私たちの人生が幸福に満ちた人生になるためには、
どのようにしたら良いでしょうか?

大切なポイントは、幸福の源泉、愛と生命の源である「神様」が
共にある人生かどうかが問題です。

本然の幸福な人生とは、「神様の子女」として誕生し、
「神様の似姿」を求めながら成長し、
「神様の実体」となって幸せを享受することでした。

しかし、堕落によって神様とサタンの中間位置という
「矛盾した存在」となり、心の中では「本心と邪心の葛藤」の連続であり、
幸せを求めて生活していても「真の愛」が
いつの間にか「偽りの愛」に変わってしまうなど、
善と悪が交差するような「矛盾した人生」となりました。

万民誰もが幸せを求めて努力しているにも関わらず、
不幸になってしまうことが多いのが現実です。


私たちの背後には残念ながら幸せに導こうとされる神様だけでなく、
不幸な人生に引っ張ろうとする
サタンの存在がいることを知らなければなりません。

多くの人が次のように考えます。
「神様がいるのであれば、なぜ人間を幸せに導いてくれないのか?」
という疑問です。

その答えは、神様は人間に責任分担を与えられたので、
人間の責任分担を無視して一方的に救いの手を
差し伸べることができないという事情がありました。


ですから、人間の成長過程においても、復帰の過程においても、
私たちが「善なる条件」を立てるのか、
「悪なる条件」を立てるのかということが常に問題となります。

では、善なる条件とは何でしょうか?
どのような条件でしょうか?
それが、今回の題名でもある「二つの精誠」です。

どんなに一生懸命努力したとしても、
この二つの精誠に合った努力をしないと神様は働くことができないし、
サタンが離れることができないのです。

その二つの精誠とは、「信仰基台を立てる精誠」と
「実体基台を立てる精誠」です。

では、「信仰基台」と「実体基台」とは、どんなことでしょうか。
原理講論を通して確認してみましょう。


  アダムが創造目的を完成するためには、二つの条件を立てなければならなかった。

  その第一条件は「信仰基台」を造成することであったが、
  ここにおいては、もちろんアダムが「信仰基台」を
  造成する人物にならなければならなかったのである。

  その「信仰基台」を造成するための条件として、
  彼は善悪の果を食べてはならないと言われた神のみ言を守るべきであり、
  さらに、この信仰条件を立てて、その責任分担を完遂するところの
  成長期間を経なければならなかった。

  そうして、この成長期間は数によって決定づけられていくものであるがゆえに、
  結局この期間は、数を完成する期間であるということもできるのである。



以上の内容は信仰基台について解説されたものですが、
その前に最初の部分に注目して下さい。
「アダムが創造目的を完成するためには、
二つの条件を立てなければならなかった」とあります。

「創造目的を完成するため」ということは、
人間が堕落していなかったとしても、堕落していたとしても関係なく、
人間の成長のために必要な条件だったということです。


これだけ大切な条件とは何かというと、
「アダムが神のみ言を守って成長期間を経る」ということです。
一言で表現するならば、「み言を信じる」という「信仰の精誠」です。

具体的には、み言を訓読する精誠、み言を書写する精誠、
み言を土台に祈りの精誠など、み言を信じて実践する信仰の精誠です。


「信」という漢字は、人と言葉が一つになった字であるように、
人間の成長のためには、「信じるという精誠」が大切です。
人間始祖アダムとエバは「不信」によって堕落したので、
復帰の道は反対に「信仰の精誠」が必要になります。

信じられない、受け入れられない状況におかれたとしても、
あきらめたり、不安になったり、周りの人や環境のせいにするのではなく、
その困難や逆境を成長のための試練として受け止め、
さらに信じる精誠が必要です。

信じることは一瞬の心ではなく、信じ続ける、貫くという期間がありました。
ですから、「信じ続ける」という「精誠」です。


また、人間始祖アダムとエバがみ言を不信して堕落した後に、
信仰基台を復帰するための「象徴献祭」として、
み言の代わりにアベルの時は「羊の供え物」を捧げました。
ノアの時は「箱舟」、アブラハムは「三種の献祭」など、
万物を供え物にする精誠を捧げました。

私たちの信仰生活においても、献金などの万物を
供え物として捧げることは信仰基台を復帰するための条件となります。



今日は信仰基台までをご紹介しました。

み言を信じて実践すること。
これは、本然の人間であっても
行かないといけないことであることを思えば、
私たちにおいては、どれだけ重要なことでしょうか。

天の父母様(神様)のみ言を信じること。
一瞬だけでなく「信じ続ける」ことが精誠の条件、
「信仰基台」となっていくのだと思います。

神様の代身として立たれているのが、真の父母様です。
特に今は、お母様のみ言を信じていくことが
何よりも重要なのではないでしょうか?

お母様を否定し、批判し、不信させるような人たちが
ブログを席捲していることは心痛い事実ですが、
今こそ、私自らが、そして私たちの家庭が
お母様と一つになること、
このことを肝に銘じないといけないと思うのです。

明日に続きます。





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posted by ten1ko2 at 10:24 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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