鄭中和先生の証し、続きです。
☆
真のお母様と共に台所に立つ
真のお母様と共に台所に立つ
私は台所にいたのですが、お母様が来られてからは、
献立が、がらっと変わりました。
お父様は、お独りでいらっしゃった時は、食べ物に対しては、
とても繊細でいらっしゃったのです。
召し上がるものが決まっていました。
生臭いにおいのしないものを好まれ、白いご飯に豚肉や鶏肉を
よく召し上がり、魚のようなものも、辛くて塩辛い、
そのような物を好まれていたのです。
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ところが、お父様は、今も「自分には冷酷なところがある。」と、おっしゃいますが、
お母様が来られた3日目に、お母様を台所に出させられたのです。
韓国の伝統で、嫁に来ると、すぐに台所に立たせるではないですか?
それで、お母様は台所に下りて来られたのです。
ところで、料理が上手な人でも、台所の環境が変われば、少しぎこちなく、
少しは戸惑うものですが、お母様は、ご自分がいつも使っていらっしゃった
台所のように、すっすっすっと、こなされたのです。
そのときの『ここは、自分の台所である。自分の家である。』というような、
そのような大胆な真のお母様のお姿を、
私が自分で写真一枚でも撮っておけばよかったと思っています。
その当時、専門的なカメラマンもいたのに、
どうしてそれを正式に撮っておかなかったのかと悔やまれます。
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その当時、真のお母様が料理されたものでは、主にジャガイモのコロッケや
タクトリタン(鶏料理)を、さっさっと上手に作られたことを覚えています。
それで、お父様は、それらをよく召し上がりました。
私が台所にいた時に、最も大変であったことは、
お父様のための献立を立てることでした。
真のお父様に、「何をお召し上がりになりたいですか?」と、お伺いすることもできません。
それで、それまでの献立と重複しないようにするために、
お父様が、その前に何を召し上がったのかを調べたり、
今の体のコンディションはいかがでいらっしゃるかなど、
そのようなことをよく考えた後に、献立を立てなければならなかったのです。
真のお父様がたくさん召し上がれば、私たちの気分も良くなるので、
私たちも、疲れが、さーっと消えてなくなるのです。
しかし、私たちなりには精誠を尽くして作ったとしても、
召し上がらなかったときには、力が、さーっと抜けていくのです。
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真のお母様が来られてからは、お母様に「何を作ってさしあげましょうか?」
とお聞きして、真のお母様と相談しながら料理を作るようになりました。
それからは、メニューの幅が広がりました。
真のお父様が、以前には召し上がらなかった物も、
差し上げることができるようになったのです。
ですから、私たちが、どれほど楽になったことか分かりません。
そのようなことに対しては、真のお母様に感謝申し上げ、
『やはり、お父様のおそばには、お母様がいらっしゃらなければ
ならないのだなあ。』ということを感じました。
真のお母様は、3日間だけ台所に出て来られましたが、
私が直接、台所に入って行って、お仕えした生活は、
1959年から始まり、1970年に3年伝道が始まって、
36家庭から777家庭まで、女性たちが全員、
伝道に出掛けて行った時までの約10年ほどの間でした。
☆
その間、真のお母様は、本当に食口たちと私たち責任者たちを、
どれほど愛されたか分かりません。
『どうしてお若いお母様が、あのようにできるのだろうか?』
と、思えるほどでした。
ある日、このようなことがありました。
その当時、私が真のご父母様のお近くに侍っていたころ、
私の夫(金榮輝先生)は総務部長をしていたのですが、
どなたかが、総務部長に会いたいと言っているのに、
どこにいるのか分からないということがありました。
その当時は、携帯電話があるわけでもなく、早く連絡を取らなければならないのに、
総務部長に連絡が取れません。
それで、お母様の所にも、総務部長がお母様の所に来ているかどうかを
伺う連絡が入りました。
すると、お母様は、「私が、◯◯に使いに行かせました。」と、
おっしゃって、総務部長を弁明してくださったのです。
私は、そのことを忘れることができません。
そのようにして、気を配って愛してくださったのですが、
『真のお母様は、どうして、そのような知恵を持っておられるのか?』
と驚くほどに、機転が利かれるのです。
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やがて、真のお母様の部屋を、新しく一つ準備することができるようになりました。
その真のお母様の部屋は、前本部教会の礼拝堂と同じ階にありました。
小さな廊下を通った所です。
少し広い部屋であるとはいいますが、窓は、明かり窓が一つあるだけでした。
その部屋への出入り口は、教会に入るための出入り口と、
外に出て行くための出入り口の二つがありました。
今、思えば、それも地下室のように暗い部屋でした。
しかし、そのような場所でも、真のお母様の部屋ができたのです。
そこを改造し、トイレもそこに造りました。
そして後には、前本部教会に隣接している裏の家を買い取り、
台所は、そこに設けました。
ですから、台所から食膳を持って、真のお母様の部屋まで行こうとすれば、
人が一人通ることができるくらいの廊下を越えて、
階段を下りてから行かなければなりませんでした。
そこは、お膳をまっすぐには持って行くことができず、
横にして持って行かなければならないほどに狭いのです。
ですから、真のお母様は、本当に多くの苦労をされました。
☆
そのような中で、真のお母様は、ご自分の感情をよく消化され、
理性的にすべてのものを受け入れるようになられました。
けれども、お母様が、それらのことをすべて消化されるのには、
どれほど大変であられたでしょうか?
1977年に、米国のイーストガーデンで、真のお父様が、
真のお母様に対して「証しをしなさい。」と、おっしゃったことがあります。
そのとき、真のお母様は、証しをされたのですが、
涙を流さざるをえませんでした。
真のお母様は、約婚をされたときから、毎年、毎年、
真のご子女様をお産みになったのではなかったのでしょうか?
ですから、お母様のおなかが大きくならない年はありませんでした。
そうであるにもかかわらず、真のお父様は、まるで、
そのような事情を考慮されないかのように、
行かなければならない所にはすべて、真のお母様を伴って行かれたのです。
そのような期間をりっぱに歩まれた真のお母様であられますが、
証しをされれば、涙が出てこざるをえないのです。
そして、「私が証しすると、涙が出てくるので、証しができません。」
と、真のお母様はおっしゃるのです。
☆
青坡洞(チョンパドン)の旧本部教会は、
日本式の建物です。
そこで、聖婚された御父母様が、
最初に住まわれたのも、深い因縁を感じます。
何度か訪れさせていただきましたが、
「お母様のお部屋」も鄭中和先生が証ししておられるように、
本当に小さな部屋だったと記憶しています。
お母様が通過された試練は、
お母様だからこそ、乗り越えられたのであり、
「真の母」という称号が与えられたのです。
ただ、名前だけ与えられたのではなく、
勝利されたお母様なのだ、ということを忘れてはいけないでしょう。
さらには、感謝して越えていかれたお母様です。
恨みをもって通過したならば、
勝利したとは言えません。
お母様を批判する人たちは、
自分の基準でお母様を見つめるから、
そのような目でしか見れないのだろうな、と思います。
そして、どんな動機で見るかによって、
見方も変わってくるのだろうし、
感じる世界も変わってくると思うのです。
続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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