2017年11月09日

(証し)話せば涙にしかならない?! 真のお母様、台所に立つ! 《鄭中和先生》4



30moon_web_2247_s878x700.jpg


鄭中和先生の証し、続きです。



真のお母様と共に台所に立つ

私は台所にいたのですが、お母様が来られてからは、
献立が、がらっと変わりました。

お父様は、お独りでいらっしゃった時は、食べ物に対しては、
とても繊細でいらっしゃったのです。
召し上がるものが決まっていました。

生臭いにおいのしないものを好まれ、白いご飯に豚肉や鶏肉を
よく召し上がり、魚のようなものも、辛くて塩辛い、
そのような物を好まれていたのです。


ところが、お父様は、今も「自分には冷酷なところがある。」と、おっしゃいますが、
お母様が来られた3日目に、お母様を台所に出させられたのです。
韓国の伝統で、嫁に来ると、すぐに台所に立たせるではないですか? 
それで、お母様は台所に下りて来られたのです。

ところで、料理が上手な人でも、台所の環境が変われば、少しぎこちなく、
少しは戸惑うものですが、お母様は、ご自分がいつも使っていらっしゃった
台所のように、すっすっすっと、こなされたのです。

そのときの『ここは、自分の台所である。自分の家である。』というような、
そのような大胆な真のお母様のお姿を、
私が自分で写真一枚でも撮っておけばよかったと思っています。
その当時、専門的なカメラマンもいたのに、
どうしてそれを正式に撮っておかなかったのかと悔やまれます。


その当時、真のお母様が料理されたものでは、主にジャガイモのコロッケや
タクトリタン(鶏料理)を、さっさっと上手に作られたことを覚えています。
それで、お父様は、それらをよく召し上がりました。

私が台所にいた時に、最も大変であったことは、
お父様のための献立を立てることでした。

真のお父様に、「何をお召し上がりになりたいですか?」と、お伺いすることもできません。
それで、それまでの献立と重複しないようにするために、
お父様が、その前に何を召し上がったのかを調べたり、
今の体のコンディションはいかがでいらっしゃるかなど、
そのようなことをよく考えた後に、献立を立てなければならなかったのです。

真のお父様がたくさん召し上がれば、私たちの気分も良くなるので、
私たちも、疲れが、さーっと消えてなくなるのです。
しかし、私たちなりには精誠を尽くして作ったとしても、
召し上がらなかったときには、力が、さーっと抜けていくのです。


真のお母様が来られてからは、お母様に「何を作ってさしあげましょうか?」
とお聞きして、真のお母様と相談しながら料理を作るようになりました。
それからは、メニューの幅が広がりました。
真のお父様が、以前には召し上がらなかった物も、
差し上げることができるようになったのです。

ですから、私たちが、どれほど楽になったことか分かりません。
そのようなことに対しては、真のお母様に感謝申し上げ、
『やはり、お父様のおそばには、お母様がいらっしゃらなければ
ならないのだなあ。』ということを感じました。

真のお母様は、3日間だけ台所に出て来られましたが、
私が直接、台所に入って行って、お仕えした生活は、
1959年から始まり、1970年に3年伝道が始まって、
36家庭から777家庭まで、女性たちが全員、
伝道に出掛けて行った時までの約10年ほどの間でした。


その間、真のお母様は、本当に食口たちと私たち責任者たちを、
どれほど愛されたか分かりません。
『どうしてお若いお母様が、あのようにできるのだろうか?』
と、思えるほどでした。

ある日、このようなことがありました。
その当時、私が真のご父母様のお近くに侍っていたころ、
私の夫(金榮輝先生)は総務部長をしていたのですが、
どなたかが、総務部長に会いたいと言っているのに、
どこにいるのか分からないということがありました。

その当時は、携帯電話があるわけでもなく、早く連絡を取らなければならないのに、
総務部長に連絡が取れません。
それで、お母様の所にも、総務部長がお母様の所に来ているかどうかを
伺う連絡が入りました。

すると、お母様は、「私が、◯◯に使いに行かせました。」と、
おっしゃって、総務部長を弁明してくださったのです。
私は、そのことを忘れることができません。

そのようにして、気を配って愛してくださったのですが、
『真のお母様は、どうして、そのような知恵を持っておられるのか?』
と驚くほどに、機転が利かれるのです。


やがて、真のお母様の部屋を、新しく一つ準備することができるようになりました。
その真のお母様の部屋は、前本部教会の礼拝堂と同じ階にありました。
小さな廊下を通った所です。
少し広い部屋であるとはいいますが、窓は、明かり窓が一つあるだけでした。

その部屋への出入り口は、教会に入るための出入り口と、
外に出て行くための出入り口の二つがありました。
今、思えば、それも地下室のように暗い部屋でした。

しかし、そのような場所でも、真のお母様の部屋ができたのです。
そこを改造し、トイレもそこに造りました。

そして後には、前本部教会に隣接している裏の家を買い取り、
台所は、そこに設けました。
ですから、台所から食膳を持って、真のお母様の部屋まで行こうとすれば、
人が一人通ることができるくらいの廊下を越えて、
階段を下りてから行かなければなりませんでした。

そこは、お膳をまっすぐには持って行くことができず、
横にして持って行かなければならないほどに狭いのです。
ですから、真のお母様は、本当に多くの苦労をされました。


そのような中で、真のお母様は、ご自分の感情をよく消化され、
理性的にすべてのものを受け入れるようになられました。
けれども、お母様が、それらのことをすべて消化されるのには、
どれほど大変であられたでしょうか?

1977年に、米国のイーストガーデンで、真のお父様が、
真のお母様に対して「証しをしなさい。」と、おっしゃったことがあります。
そのとき、真のお母様は、証しをされたのですが、
涙を流さざるをえませんでした。

真のお母様は、約婚をされたときから、毎年、毎年、
真のご子女様をお産みになったのではなかったのでしょうか?
ですから、お母様のおなかが大きくならない年はありませんでした。

そうであるにもかかわらず、真のお父様は、まるで、
そのような事情を考慮されないかのように、
行かなければならない所にはすべて、真のお母様を伴って行かれたのです。

そのような期間をりっぱに歩まれた真のお母様であられますが、
証しをされれば、涙が出てこざるをえないのです。
そして、「私が証しすると、涙が出てくるので、証しができません。」
と、真のお母様はおっしゃるのです。



青坡洞(チョンパドン)の旧本部教会は、
日本式の建物です。
そこで、聖婚された御父母様が、
最初に住まわれたのも、深い因縁を感じます。

何度か訪れさせていただきましたが、
「お母様のお部屋」も鄭中和先生が証ししておられるように、
本当に小さな部屋だったと記憶しています。

お母様が通過された試練は、
お母様だからこそ、乗り越えられたのであり、
「真の母」という称号が与えられたのです。
ただ、名前だけ与えられたのではなく、
勝利されたお母様なのだ、ということを忘れてはいけないでしょう。

さらには、感謝して越えていかれたお母様です。
恨みをもって通過したならば、
勝利したとは言えません。

お母様を批判する人たちは、
自分の基準でお母様を見つめるから、
そのような目でしか見れないのだろうな、と思います。

そして、どんな動機で見るかによって、
見方も変わってくるのだろうし、
感じる世界も変わってくると思うのです。

続きます。





にほんブログ村

良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!
(なお、記事の冒頭の家庭連合のバナーもブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)


※ このブログは、
あくまでも個人において、書いているものであり、
教会本部とは一切関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

posted by ten1ko2 at 10:26 | Comment(0) | 父母様の路程 生活の証し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。