2018年10月17日

イエス様の恨(ハン)とは?! 〜心の整理ができないときに〜《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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昨日は、心が落ち着かず、
なかなか責任分担で思うように行かないこともあり、
悶々としていたのですが、
李ヨハネ先生のみ言を通して、
方向転換できました。

イエス様のお話です。


  時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。

  イエスは彼らに言われた、
  「わたしは苦しみを受ける前に、
  あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
  あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、
  わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」

  そして杯を取り、感謝して言われた、
  「これを取って、互に分けて飲め。
  あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、
  わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」

  またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
  「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。
  わたしを記念するため、このように行いなさい」

  食事ののち、杯も同じ様にして言われた、
  「この杯は、あなたがたのために流す
  わたしの血で立てられる新しい契約である。

  しかし、そこに、わたしを裏切る者が、
  私と一緒に食卓に手を置いている。

  人の子は定められたとおりに、去って行く。
  しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」

  弟子たちは、自分たちのうちのだれが、
  そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。
  
(ルカによる福音書第22章14〜23節)

切迫した状況に置かれたイエス様

地上に成就しなければならないみ旨を
継承してこられた方がイエス様でした。

主は、この地に来られましたが、み旨を成就する期間がなく、
切実な事情に追い詰められました。

地上を去らなければならない日が切迫してきたときに、
過越の祭の記念を通じて、ご自分が去ることを
宣言される場面を聖書に見ることができます。

天の身代わりとして来られたイエス様の使命は、
地上の人間たちをサタン分立して天の圏内へ復帰するか、
あるいはイエス様が不信の人間たちの前に祭物になるか、どちらかでした。


そうしてみますと、信じてくれる対象を
探し求めなければならないイエス様でした。

まず、家庭でイエス様が天から来られた方であることを
信じなければなりませんでしたし、
この家庭を基盤としてイエス様が育った地域の会堂長とか
祭司長たちが信じなければなりませんでした。

家庭と教団を探し求めなければならない方であったのに、
家庭で主を天の人として見てくれず、
教会でも不信するようになりました。


悪主権の下で、神の国がイエス様を中心として
宣布されなければならなかったのですが、
過越の祭を迎えて、パンとぶどう酒を分けて
お与えになる恨多い主であられました。

堕落人間は、何か仕事をしていて疲れたならばやめますが、
イエス様は、世の中の人々がみな違うと言っても、
復帰の責任を放棄することができない立場でした。

家庭と教団を失ってしまい、イエス様が
世の中に入っていくことのできない立場で、
弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えながら宣言されたことは、
このことを通じて、ご自身は不信の群れの前に
祭物になる決意であるということでした。


モーセは、カナン復帰路程で三度も、
信じるに値する条件を立てて民族が一つになることを渇望しました。

また、モーセは、神が立てられた方であるということを
分かるようにするために奇跡あるいは、
契約の箱を通して信じるに値する証拠を見せましたけれども、
イスラエル民族が不信を繰り返しました。


このような不信の民族の中に来られたイエス様は、
天から来られた証拠を見せてやらなければなりませんでした。

そのような中で、教団で不信されたイエス様は直接出て行って、
重病患者たちを呼んで起こされ、盲目の者の目を開け、
不具者を立ち上がらせ、天から来られたことを見せてくださいました。

特別に三弟子を中心として、いろいろな弟子たちに
それを見せてやろうとされましたし、
七十人門徒を全国に派遣して、天が共におられることを
経験するように導こうとされました。

そのように主について回り、目で見、経験し、
また、代わりに出て行って伝道した人たちも、
結局は不信してしまいました。

イエス様に病気を治してもらった者は、
すべて自分の事情によって戻っていきました。


主の事情を理解し、主のためにしようとする者は一人もいませんでした。

弟子たちも自分たちの主の願いが何なのかと思いながら、
主のために生きようと考える者がいませんでした。

すべての人々がみな、主は自分たちのために来られたとだけ考えました。


李ヨハネ先生
〜聖書の中の心情圏〜
『恨の多い主』より


上の聖書の引用は、いわゆる「最後の晩餐」の場面であり、
この後、3弟子を連れて「ゲッセマネの祈り」に向かい、
そして捕えられ、十字架につかれます。

イエス様はどれほど孤独であられたでしょうか。。。

真のお父様が来られて、
その深い心情がわかり、解放されるまで、
2000年間も無念な思い(恨 ハン)を持ち続けておられたのでした。

ご自身の思いを誰からも理解されることなく、
それでも、天の願いを受けたので
み旨を放棄することができずに、
歩み続けてこられたイエス様でした。

イエス様のことを思うと、私の責任分担など、
全く持って大したことはない、
もっと投入しなければ、
そのように思わされたのでした。

不定期に続きます。




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*李ヨハネ先生のお名前について
李耀翰と書いて、イ・ヨハンというのが正式なお名前ですが、
日本では、李(リ)ヨハネ先生としてもお馴染みです。
ご父母様が、文鮮明(ムン ソンミョン) 韓鶴子(ハン ハクジャ)であるように
元老の方々のお名前についても、日本語読みではなく
韓国語読みに変えるべきであるかとは思うのですが、
このブログでは、親しみを込めて李ヨハネ先生とお呼びしています。



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posted by ten1ko2 at 08:56 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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