大谷先生の「ダーウィニズムを超えて」より、
今日は、人間の目の構造から、
進化論の疑問にせまってみます。
☆
次に、創造か進化かという論争において、
中心的なテーマになった目の問題を取り上げてみよう。
脊椎動物の目のように、複雑な機能と構造をもつものが、
ランダムな変化の中から、いかなる自然選択によってできたのか、
全く説明は困難である。
ダーウィン自身、
「(極度に完成化し複雑化した器官である)目が
自然発生によってつくられたであろうと想像するのは、
このうえなく不条理に思われる」と率直に告白したのであった。
☆
ところが彼は、単純な光感受性のある点(細胞)から
洗練された人間のカメラ型の目に至る進路の経路を
示すことにより、目が進化によってできたものであると主張した。
しかし博物館で、自動車が年代順に
古いものから新しいものという順序で並べられているのを見ても、
誰も、走る競争をしているうちに車が進化したとは考えない。
車は技術者の絶えざる創造力の投入によって発展したのである。
同様に、単純な感光点から高級な目まで並べてみても、
それが進化の証拠とはなりえない。
実際、目が発展するそれぞれの段階が大きな飛躍であって、
段階を示すだけでは進化といえないのである。
☆
科学ジャーナリストのリチャード・ミルトン(Richard Milton)も次のように言う。
現代のダーウィニストはたいそう楽観的な考えをもっているようだ。
光を感知する細胞といった
進化の初期段階における基本的な革新さえ起きてしまえば、
視力の累積的選択がいくぶん起こりやすくなるという。
しかし光を感知する組織が存在しても、
水晶体や虹彩のメカニズムや瞼(まぶた)などに関する
突然変異の起こりやすさには何の影響も及ぼさない。
(リチャード・ミルトン、竹生淑子訳『進化論に疑問あり』
1995年、186頁、)
1995年、186頁、)
☆
しかも生化学者のマイケル・ベーエ(Michael J. Behe)が指摘しているように、
単純な感光点が、そもそもどこから来たのか、
ダーウィンは説明しようとせず、
目の究極的な起源の問題は放り出しているのである。
実際、感光点それ自体、単純なものでない。
ダーウィンにとってはブラックボックスでしかなかった。
それはテレビの複雑さよりもはるかに複雑なものであり、
多くの生化学者の研究によって、ようやく視覚の
生化学的な構造が明らかになりつつあるのが現状である。
☆
目は、自然界がどうなっているかということがよく分かっていて、
周到につくられたものであること、
したがって目を見れば神の存在を否定できないと、
文鮮明師は次のように語っている。
動物世界では、生まれる時に、
まず目が最初に生ずるようになっています。
目自体は物質です。
目は生まれる前から、太陽があることを
知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。
物自体である目は何も知らずに生まれてきましたが、
太陽を見られるように生まれたということは、
目が生まれる以前から、太陽のあることを
知っている存在があったというのです。
すなわち、目は太陽があることを
知っていて生まれたということになるのです。
目自体は、空気があることも、
埃(ほこり)が飛び散っていることも、蒸発する
輻射(ふくしゃ)熱があることも知らなかったとしても、
既にそれらを知っている存在があって、
目を守るために、瞼が準備されたり、
涙腺をもって防備させたりするのです。
大谷 明史・著
(光言社刊『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』より)
第一章 進化論を超えて
(二)生物はデザインされたものか
(2)目の問題
(光言社刊『ダーウィニズムを超えて〜科学の統一をめざして』より)
第一章 進化論を超えて
(二)生物はデザインされたものか
(2)目の問題
☆
設計者がいて、設計図があって、
さまざまな作品が生まれます。
人間のその創造性も、神様から受け継いだもの。
そもそも神様の創造の過程は、すべて
人間に幸せになってほしいためでした。
人間が、何よりも貴い、価値のある存在だというのです。
それなのに、「進化した」と言って、
創造主を尊ばないというのは、
神様から見れば、どれほど寂しいことでしょうか。
知れば知るほどに、神様の創造は素晴らしく、
私たち人間の価値も本来素晴らしいものだとわかります。
偶然に進化した、と簡単に片づけることができません。
神様を誇り愛する私たちにならなければ・・・
改めて思うのです。
不定期に続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
【統一原理・統一思想の最新記事】
- 「統一原理は私の中に、私は統一原理の中に..
- こうやって生きたら幸せになれる、5項目 ..
- 実る前にあきらめていませんか── 「蕩減..
- 直接伝道とは直接「ために生きる」こと、ま..
- 講師ではなく、「統一原理」が鮮明に残る講..
- 揺りかごから墓場まで、私たちは何のために..
- 神を惚れさせる人、サタンが脱帽する人・・..
- 天国に行くか地獄に行くかは、死後に決まる..
- 「神様と海で5時に会う約束をしている」 ..
- 人類の救い(復帰摂理)は、宇宙の法則(創..
- 全ての人を愛したい神、私がなぜ先に選ばれ..
- さして功績のない私、精誠を捧げに捧げた先..
- 最新の科学によれば、宇宙は、女性を最初に..
- 原理は人のためならず すべては私のために..
- 再臨主が「心から感謝する」と称えた劉孝元..
- 魔法のように一瞬で創られたのではない 宇..
- 1ページ1ページに数百回の涙、講論執筆 ..
- 言い訳の多い人とは?! 努力を尽くす人は..