2020年04月02日

み言を自分のものにしないで話すと、サタンがもっていく?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李ヨハネ(イ ヨハン)先生
「み言を実践すれば神が分かる」です


み言も、先生が勝利された後で、私たちに与えてくださるものです。
試験をし、勝利して初めて、一つ一つ与えてくださるわけです。

人から聞いた話を語るのではありません。
だから先生は、尽きないで何回でもみ言を語ることができるのです。


頭で習ってやったものは、何回かすればやりたくなくなります。
そういう言葉は、人の頭の復興はできるかもしれませんが、
生命の復興はできません。
そこが違うのです。

「人のために尽くしましょう」という同じみ言でも、
語る人によって感動は違うのです。
あなたとメンバーと同じことを言っても、
受け取る内容は違ってきます。

まずみ言を自分のものとする過程が必要であることを
忘れないでください。
統一教会で長年やってきても、
そういうことをしなければ、喜びがなく、
み言の価値が分かりません。

よく語る人がいいですか、話さなくてもよく行う人がいいですか。
言葉で「愛する、愛する」という人より、
「愛する」とは一度も言ったことがなくても、
愛してくれる人が好きでしょう。


例えていいますと、話をする時は全部を話さないで、
十あれば三ぐらいを残しなさいということです。

話をたくさんすると、その後でおなかが空いたように、
何かむなしさを感じます。
自分にいっぱいあったものも、全部あげてしまえばなくなるでしょう。

例えば1000ポンド持っていたとしましょう。
それを与える時は気持ち良くても、
全部与えた後は、何もなくなるからむなしいのです。
それと同じです。

そのむなしさは、満たされなければいけません。
そしてそのためには、基盤がなければいけません。
お金を稼ごうとしたら資本金、種になるお金が必要です。
それがあれば、すぐまた増やせるのと同じです。


昔、聖パウロが天上の情景を見ました。
それを十三年後になって人々に証したのです。
なぜか分かりますか。

貴重さというのは全部分けてあげると感じなくなります。
自分だけがもっている時にこそ、宝石なのです。
この人もあの人も持っていたら、価値がなくなります。

それゆえ彼は、十三年前に見た天上の情景の感激を、
自分一人でもっていたのです。

伝道に出掛けても、たくさんの迫害を受け、
自分自身がダウンするような時にも、
その情景を思い出して、また力を出して
勝ち抜いていくことができました。


人を教えるのは、それ以上のものをもっている時です。

そうでないのに、どんどん出してしまうと、
何もなくなるから、ほかの人のところに行って、
力を補ってもらわなければいけなくなります。

神はまず、自分のものにしなさい、
その次に人に分け与えなさいと言って、
祝福を与えたのです。
そうすれば、神の祝福は全部、全体に行きわたります。


ところが、自分が一致化せずに、つまり自分のものにせずに、
ほかの人に与え、その人自身も自分のものとせずに、
また人に与えたら、その人たちは全部空になります。

そしてその一番末には誰がいるかというと、
そこにはサタンがいるのです。
そうすると、この人たちは全部がサタンの側に入ってきます。

神は愛する人にみ言と祝福を与えたけれども、
自分のものとしなかったがゆえに、
その祝福を誰がもっていくかというと、
サタンがもっていくのです。

皆様がいろいろな兄弟たちに教えたり、お話ししたりする時には、
まず自分のものとする努力、一致化させる期間が
必要であることを忘れないようにしてください。

み言をそのまま行ってみると、
神のみ言、人格、心情も全部分かってきます。

伝統の源流
U 先生の道は我々の伝統
 第七章 何よりも神のものを愛す
み言を実践すれば神が分かる


み言の実践。。。

何といっても、真の父母様は
み言を完全に体恤されたので、
語ることができるのだということです。

お父様のみ言を引用します。

み言が先でしょうか、実体が先でしょうか。

今日の宗教では、実体に関することには
確信をもつことができず、
教えを重要視するので、
実体と教えが一体になるというのは、
本当に難しいことです。

統一教会では、み言が先ではありません。
実体があって、その実体が行った事実を
み言で証するので、
内外が一致し得る内容を知ることができるというのです。

今まで、宗教界や学問世界において
真理を探究するに当たって、
問題となっていた焦点を解決するために、
実体み言宣布大会が始まったのです。

(2010.7.8, 天正宮博物館でのみ言)

真の父母様は「み言実体」を越えて、
「実体み言」、
つまり存在自体が実体のみ言そのものだ
とも言うことができるといいます。

み言は食事のようなもので、
実践は運動のようなものだといいます。
美味しいご飯を食べることは、
とてもいいことですが、
運動をしなければ病気になってしまいます。

ですから、ために生きる生活、
み言の実践をしていかなければ、と感じます。

現在においては、伝道実践できない環境ではありますが、
いや、目の前にいました。
教会のスタッフたち、
そして家族一人一人に対して
愛の実践をしていきたいと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 10:25 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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