2020年05月02日

参拝・礼拝に出掛けなくても、神と自然を満喫できる?! 《浅川先生 自叙伝講話》



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新型コロナウィルスの
終息を心からお祈りします☆


「観光に出掛けなくても、自然を満喫できる?!」
ということで先日紹介しましたが、
浅川先生の自叙伝書写講話の続き、
「自然は神様の贈り物」です。


私たちが、自然に囲まれながら生きているのに、
価値を認めず、感動がないのは、
自然万物の本質的意義が分かっていないからです。

文鮮明先生のみ言によると、自然万物には三つの意義があります。

第一には、自然万物は、
神様の愛の贈り物、プレゼント、なのです。

親なる神様が子女である人間の幸福のために下さった贈り物なのです。
それゆえ、全ての自然万物には神様の愛が込められています。


ある貧しい家の子供がいたとします。
学校から帰ってきて机の上を見ると、一本の鉛筆が置いてありました。

子供はその鉛筆を握り締めて泣きました。
貧しさの中で必死に働く母親の
精いっぱいの誕生日プレゼントであることを悟ったからです。

私たちが通り過ぎる道端の木や草は神様の愛のプレゼントで、
親の愛が込められているのです。


「道を歩いていて一株の草を見ても、
 涙を流すことができなければなりません。
 一本の木を抱きかかえて
 泣くことができなければなりません。

 一つの岩、一瞬の風にも、
 神様の息遣いが隠されていることを
 知らなければならないのです。

 自然を大切にして愛することは、
 神様を愛することと同じです」

(自叙伝316ページ)


もし、私たちが、全ての自然万物に神様の愛を感じられるなら、
仕事や学校の道筋で、愛で満たされるのです。

神様と自然と言えば、私たちは神社にお参りに行くことがあります。
参拝者は、手をすすぎ、社の前で、
合掌して、神様と向き合います。
では、神様は、神社の社にしかいらっしゃらないのでしょうか。

鳥居をくぐって参道を歩くと、両脇に、杉の木などが、
(りん)としてそびえたっています。
風がそよぎ、木のささやきが聞こえます。
この静寂の中に、神様の愛が込められているのです。

参道そのものが、神様の愛との出会いなのです。
神社に限らず、教会に行くとき帰るとき、
既に、道端で神様の愛に出会っているのです。

浅川 勇男・著
(光言社・刊『文鮮明先生の自叙伝に学ぶ〜心のあり方』より)
第十二章 一つの岩、一瞬の風にも神様の息遣いが隠れている
自然は神様の贈り物

『平和を愛する世界人として』のページ数は
創芸社出版のものです


自然万物一つ一つに
親なる神様の心情を尋ね求める、
その心情世界が重要である、と感じます。

お父様の自叙伝に
「一つの岩、一瞬の風にも、
神様の息遣いが隠されている」
と書かれている、ということは、
お父様ご自身がそのような体験をされたからです。

一株の草や一本の木を見て、
涙を流されるお父様の感性の鋭さ、
自然を通して神様の心情を求める世界、
本当に相続していかなければならない、と思うのです。





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posted by ten1ko2 at 07:30 | Comment(0) | 浅川先生 自叙伝書写 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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