2020年06月29日

「悔い改め」て再決意しただけで、満足していませんか?! 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」より
「恵みと試練」です。


アブラハムは祭物で失敗しました。
しかし、二番目にイサクを通じて勝利しました。
これは祭物をささげていない立場と同じだというのです。

一敗して一勝した、ヤコブを通じてもう一勝した、
そういうところに立って、初めて
祭物の献祭に勝利した立場に立ったというのです。


私たちが神の前で約束したということは、
一つの祭物をささげるのと同じことなのです。

私たちはこういうことが分からないので、
悔い改めてそれで勝利したと思っていますが、
本当は勝利ではありません。

五年、七年、十年たっても、結局行っているところは
元の点でしかないのです。
ですから常にサタンは、執拗に
私たちを神の前に帰そうとしないというのです。


あるAという人と仲が悪いとします。
そういう人を勝利していかなければならない私であると
教えられているのですが、なかなか和合ができません。

和合ができないから“あっ、それは悪かった、
仲良くしていかねばならない”と悔い改めます。
悔い改めた時は、勝利したような気持ちです。

ところが相手に会うと、
お祈りの中で心に決めたようにはなかなかうまくいきません。
それでまた駄目になってしまいます。

その原因を追求し、分析し、そしてその原因をとらえて、
悔い改め決意します。

そうすると同じことがまた再現されます。
再現された時に勝利して初めて、
その人と必ず和合してみせると決意したことが
成就していくというのです。


何にでも同じことがいえます。

ですから私たちは、普通こういう集会を通じて心霊が上がります。
その状態というのは悔い改めて決意したのですから、
勝負をつける資格を獲得した時点だというのです。


相撲して一敗したとします。

それからすぐには勝負しないでしょう。
まずその人の一番の長所を知って、
これに対して私はどうすればいいかということを考え、
そして練習します。

鍛えてその次に、二番目の勝負をつけるわけです。
そして勝った時になって初めて
最後の勝負をつける資格を獲得したというのです。

例にとって話したのですが、信仰でもそういうことがあります。
その点を十分に考え知っていかねばならないと思います。

 
ですから、恵みがあった後に
サタンの試験があるということはそういうことなのです。

恵みの後に、必ずサタンの試験があるということは、
恵みがある前に私は負けていたということです。
だから恵みが必要な人間であったということなのです。

恵みを受けた立場は、先ほど話したように、
象徴的に勝利しうる条件にしかならないのです。

そしてそのことが必ず再現されます。

そこで勝利して、勝負をつける資格を
得ることができるというのです。


ですから、恵みを受けてから試験を勝利した時に、
その恵みがそのまま自分のものにはなりません。

その恵みが本当に自分のものになるには、
もう一度試験に勝利しなければなりません。

大抵は恵みの後の試練に勝利した時点で、
その恵みが自分のものになったような気分になりますが、
皆さんは、今説明したことをまず頭に入れておいてください。


悔い改めたり、感激したという時は、心が非常に盛り上がります。

そうなれば信仰が一段高くなったように考えやすいのですが、
高くなったのではなく、高くなる象徴的条件となるのです。
それを考え違いをしている人が多いのです。

だから、そういう恵みを得ると、そこで満足しやすいというのです。
そこで満足してはいけないのです。
自分のものにはまだなっていないのですから。

(「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑)


恵みと試練。。。

昨日紹介した徳野会長のみ言、
「小さい山の頂点に到達して、
次の大きな山に登るとき、
一度は山を降りなければならない」
そのみ言と通じるものがあると思いました。

私たちはロープウェイのごとく、
すぐに次の山に到達できると思ってしまいます。
しかし、一度降りなければならないのです。

真のお母様も今回、基元節7周年を中心として、
一つの節目を立てられました。

しかし、新たなる7年路程に向かって、
また一歩一歩踏みしめておられます。

私たちもそんなお母様に倣い、
新しい出発をする立場であると思うのです。






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posted by ten1ko2 at 08:01 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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