2020年07月11日

恨(ハン)は人間関係でしか解けない?! まずは怨讐、カインから愛する 《李ヨハネ先生》



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天正宮の庭園


李ヨハネ(イ ヨハン)先生の説教、
「本性の恨(ハン)」の続きです。 


 恨は人間関係で解くべきもの

(ハン)の原動力を持たない人が悩むと、
損害を受けて信仰路程で時間を浪費します。

葛藤は、人をどれほど惨めにするでしょうか。
心情的に相当損害を受けます。

ですから人を高める心を持たなくてはなりません。
哀れみを持たなければなりません。
人と合わなくても哀れみの心、
耐える心を持たなくてはなりません。

価値がなくても価値があるごとくに思うことが哀れみの心です。
小さい者でも主のごとくに思うようにならなければなりません。


聖書には、小さい者に冷たい水一杯でも与えよという言葉があります。
小さい者に水を与える心を持たない人は、
主に水を与えないのと同じです。

マタイによる福音書十章40〜42節を見ると、
小さい者にしたことが主にしたことであり、
そのようにしないことが主にしないことと同じであるとあります。

聖書はここに重点を置きました。


人間関係で心情的によく調和できる人が、主の恨を解く者だというのです。
人間関係で解かなければ、解けるはずがありません。

兄弟間で解き、友人間で解き、すべて自分の生活圏内で
解いていかなければならないのです。

理論ではできません。
み言だけでもだめです。
信仰だけでもだめであり、
無形世界を通じたとしてもだめです。

これは、必ず人と人との関係の中で解かなくては
解けるはずがありません。

ですから父と子の関係で結ばれたことは父と子の関係で解き、
夫婦間で結ばれたことは夫婦間で解き、
兄弟間で結ばれたことは兄弟間で解かなけれかりません。
これはほかのところで解けるはずがありません。

 
今日、宗教は贖罪観が本当にあいまいです。

すべてのことが縦的関係において解決されると思ったのに、
ろくに解決されていないのです。

下から解いていかなければなりません。下から……。
カインとの関係から解いていかなくてはなりません。

だから、まず怨讐を愛せというのです。
怨讐というのは、ほかにあるのですか。
一人の兄弟間でも調和できていないことが怨讐です。
心と体が一つになれないのが怨讐ではありませんか。

ほかの人の体が病気になったのに、
私の体に不調和が起こるはずがないでしょう。

私の体の中の不調和が怨讐だ。
そうなのです。
調和がなされなくてはならない環境圏内にあるのに調和できない。

兄弟間、夫婦間、親子間、これが
調和しなければならないのに、できていないのです。
どうにもなりません。

怨讐はほかのところにあるのではなく、
私の家の中の家族だというのです。
これは、調和すべき関係が調和できていないということなのです。

『生活の中の心情復活』
(『信仰と生活 第3集・私の神様』を改題)
第三章 復帰人の本性「本性の恨」   
1985年4月23日(火)
統一神学校
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


現在、世界の人口は、約78億人。
私の人生において、その中で出会う人たちは、
ほんの一握りです。

世界、と考えるのが大袈裟だとしても、
日本の人口、1億2650万人のうち、
出会える人たちも、ほんのわずかなのです。

当たり前のように出会う人たちも
私の人生に必要だから、
意味があって出会っている。。。

ヨハネ先生の言われるように、
貴い一人一人であり、
主に出会う心情で出会っているのか、
ただ単に出会っているのか、
もう一度見つめ直さないとな、
改めて思いました。






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posted by ten1ko2 at 08:27 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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