2020年08月04日

「信仰・希望・愛」は、切り離しては考えられない?! 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



200804-聖ペテロの天国への鍵の授与.jpg


李ヨハネ(イ ヨハン)先生
今回は、「信仰・希望・愛の路程」です。


信仰・希望・愛の路程を考えてみるとき、
信仰は縦的関係を生命視する心情をいい、
希望は現実に責任を着実に果たし、
生じる実績を土台にして出てくる意欲をいいます。


  信仰・希望・愛は分離して考えられない

信仰の力は、縦的関係を重要視して、
自分を否定するところから出てきます。

そして、希望の力は、生活において責任を着実に果たすことで、
積み重なった自分の実績を基盤にして出てきます。
その力を通して、愛を経験するようになります。

「信仰がある、ない」または
「希望が生まれる、生まれない」また
「自分に任されたことに対して、積極性を持つ、持たない」
というように、信仰と希望と愛というものを、
分離させて考えることはできません。

信仰の中に希望があり、そして愛があるのです。
また希望の中にも、信仰と愛があるし、愛の路程においても同じです。
お互いを分立することはできず、
密接な関係を持っていると見なければなりません。


ところで、信仰といえば大部分の人は
縦的関係だけを強く考えるようになり、
現実の生活に不誠実になります。

人間関係が不和になり、自分の実生活に無責任になるのです。

これを私たちは、イスラエルの人々を通して知ることができます。
イスラエルの人々は、「我々は選民だ」
「我々はエホバの民だ」という意識が強くなり、
ほかの民族を差別しました。

生活の中で彼らが誠実になれず、真実になれず、
徳化力がなかったということを知っています。

この縦的関係の信仰のゆえに、
実生活で人を低く見るということは事実です。


皆さんも何か悟ったなら、悟っていない人に対して差別意識が生じます。
自分が特別に縦的な関係を通して何かを経験したとすれば、
横的関係はよくなりません。

また自分が愛を受けると、
愛を受けられなかった人に対する差別が生じたりして、
人間が偏屈になっていきます。

このように縦的関係をあまりにも重要に考えすぎると、
現実の生活で真実に生きられず、
謙遜でなく、傲慢になって、差別するようになります。

そうして自分を失ってしまいます。
本然の自分を失ってしまうのです。

1985年10月29日(火)統一神学校
「信仰・希望・愛の路程」
(この説教はチャペルの時間に語られたもの)


これは、コリント人への第一の手紙第13章13節
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である」
ここからとられた題目ですね。

この聖句にどれだけ力を得たクリスチャンたちが
数多くいたことでしょうか。。。

ヨハネ先生もここから、
様々なことを感じられています。

信仰と愛は、一体である、というのです。
信仰を優先することにより、
人間関係が希薄になってしまう、というか、
分離する状態になっている人もいます。

しかし、ヨハネ先生は、
「分離しては考えられない」
と語られています。

その辺の内容をこれから学んでいきたいと思います。
お楽しみに。






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posted by ten1ko2 at 07:36 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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