2020年08月20日

問題があっても、その人に対し指摘しないで、神の心で見守る?! 《金元弼先生》



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金元弼(キム ウォンピル)先生のみ言、
「悔い改めは出発の時と同じ」の続き
『許しは神の心情から』です。


先生は他人を苦しめる人に対して、今お話ししたように、
原理がこうであるからこうしてはいけないとは忠告されません。

こういった人のために、いかばかり
神は苦しまれたことだろうかと、神の心情を慰めるのです。

そして神の心をこれ以上苦しめないためには、
私が神の身代わりになって、こういう人たちを
見守ってあげなければいけないと考えて忠告するというのです。

先生は私たちに対して色々、ある時には命令したり、
あるいは忠告したりお話しをされます。
けれども、私たちとは全然その内容が違います。
次元が違うというのです。
先生はそういう立場でお話ししているのです。


ところが、私たちはそうではないのです。
そんなことよりも、あの人は悪いんだ、教えてあげなければ、
忠告してあげなければいけない、そういうことばかりやっています。

その解決は自分を中心としてしてはならないというのです。
先生は、神がこうであるから、ということによって
初めて解決されるというのです。

兄弟たちが私に良くしない時、
これからはどう考えなければいけないでしょうか。

自分を苦しめる人を、その人と考えず自分と考え、
苦しめられる自分を自分と考えず、
神様、先生であると考えるのです。

苦しめる人に対して、まず感謝の心をもち、
神の心をそして先生の心情を慰めなければならないというのです。

ですから、自分の心が痛いということは言わないのです。
このように皆がなれば、私たちの世界は、
今とは次元の違ったものに向かっていくのではないかと思います。


人に苦しめられた時、ただそれを忍ぶものだと考えても、
それはなかなか実行、実践できないものです。
悪口を言われても忍ぶものだ、愛するものだ、
許すものだといっても、ただ許すという心は起こってきません。

より高い心情をもたないと許すことはできません。
高い心情とは、神の心情、親の心情なのです。

ですから神の心情、親の心情を所有しない限りは、
そういう兄弟を許したり、愛したりすることはできません。

人間同士の愛というものは、同じ愛の量をもっているので、
与えれば自分の分は少なくなるから、あげることはできません。
愛するためには、より以上の愛をもたなければいけません。

より以上の愛というのは、人間の親に当たる神の愛です。
無限なる神の愛ですから、愛をたくさん受けることによって、
愛を与えることができるというのです。
神の愛ではなく、自分の愛ならば、私の愛の量はなくなってしまいます。

 
この世の兄弟関係でも同じです。

兄と弟がいて、その仲が悪い時には、
兄弟同士では仲良くなることはできません。
同じ次元ですから人間同士では和解できないのです。

神が仲介しなければ人間の和合というものはありえません。
人間は元々神を中心として始まっています。
ですから中心たる神を除いて、
人間同士の平和というものは絶対ありえません。

だから、共産主義の理想は、実現不可能だというのです。

神を中心としてこそ、初めて、人間の和合、人間の平和があるのです。


一つの例をとってみましょう。

今も話したように、兄弟ではなかなか伸直りができません。
同じ立場ですから。ところが私たちが仲良くしなければ、
親が心配するだろうと思う時、より高い親の心によって初めて、
兄弟の和解、和合がありえるのです。

喧嘩して何年たっても和解できないとします。
私たちは和解できなくてもいいのです。

けれども、こういうことによって親が心配するから、
親を心配させないために、ということで親の心、
親が仲介になって初めて、お互いに譲り合うことができるというのです。

誰がそれを始めるかといったら、
先に親の心情を受け継いだ者が動機になることができるのです。
ですから兄弟の仲直りも、一番大きいお兄さんからするのです。
一番上のお兄さんは、親の心情を受け継いでいるのです。

長男は親の身代わりです。
ですから、相続権が次男よりも長男にあります。
親の心情を受け継いだ者だというのです。
次元の高い心情をもつことによって、初めて和解がありえるのです。
また愛することもできるのです。

ですから、皆さんは永遠なる神の愛を受けずしては、
人を愛することや、兄弟を愛することは絶対にできません。
そういう心情を受け継ぐことによって仲直りもできるというのです。

そういうわけですので、問題の発見者は自分であっても
その解決は自分ではなく、
必ずそこに先生、神がいなければいけないというのです。

「悔い改めは出発の時と同じ」 
1975年11月2日 川崎・楚麗邑


神様の立場に立って物事を捉えていく。。。
具体的な例題を取り上げてくださり、
本当に貴重なみ言だと思います。

兄弟間で相手の課題を指摘しても
なんの解決にもなりません。

これは、兄弟間だけでなく、
組織と組織の関係、また、国家間の紛争、
これも当事者だけでは解決できないことがありますよね。
お互いが父母の心情に立てれば何の問題もないのですが。。

人に対して、課題を指摘しても、
その人自体に自覚がないと、
むしろ反発されることもありますよね。

ですから、元弼先生の語られるように、
その人が私に対することは、
私が神様にしていることだと捉えて、
自分自身を悔い改めていく。。。

ある意味では、神様がわからない、という人は、
目の前の人間関係を通して、
神様と近くなる、ということなのかと思うのです。







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posted by ten1ko2 at 07:58 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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