2020年12月13日

主管されるべきでないものに主管されていた私たち 愛の主管とは?!  《李ヨハネ先》



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李ヨハネ先生の「信仰と生活」のみ言。
今回は、「主管とは愛すること」です。


信仰の中での主管性ということも、
結局ここにあるのです。

自分の位置を知っている人は、
絶対にサタンに主管されません。

主管性の転倒は、堕落性です。

今まで堕落人間が歩いてきたその生活を見てみると、
主管者ではないものに主管されてきた人間なのです。

物質に主管されたとか、悪主権に主管されたのです。

結局地上には永遠というものを知っている人がいないから、
目の前の金持ちとか、世間に主管されたのですが、
悟ってみれば、主管されるべきでないものに
主管されていた人間だったのです。


私たちは、だれに主管されるべきか。

この「主管性」は、愛を基盤として言う言葉なのです。

子供は自分の親に主管されたがり、
婦人は自分の旦那さんに主管されるのを喜びます。

こういう意味の「主管」という言葉は、
今まで使っていた「主管」とは違うのです。

「自分は心からイエス様に主管されたい」とかと言って、
それでイエス様が私たちの主管者になるのではないのです。
愛の主体になって、結局、情の主体者となって、
あがめられ、恋しがられる存在となって主管者になるのです。

これが愛の主管性です。
この主管性を立てなくてはいけないのです。


だから、聖書に、人にいじめられるな、
人に無視されるな、獄へ行っても人に徳を与え、
愛を伝えるならばあがめられるとあります。

これが、主管性を復帰することになるのです。
だから、人のために自分を犠牲にするのは、
主管性を復帰することに、その目的があるのです。


結局、再臨の主は、どんな主管主、善の主権者なのでしょうか。
それは結局、全人類を一つの家族のように愛に結ぶ主管者です。

堕落していなければこういう愛の主管者に
結ばれなくてはならない本来の人間が、
堕落して、主管者でないものに主管されていたので、
私の血の中には、それに対する恨みの要素が流れているのです。

だから、そういうことに対して反発心があるのです。
しかし、自分の信仰心の中で、主管性を立てなければなりません。


自分は生命の道と思って教会へ来るという信仰をもっていても、
その教会のだれだれを恋しがるという心がないと、
主管性のない人なのです。

結局、情の関係を結んでいない人が多いのです。
そうすると、さっきも言ったように、見物しに来ることになるのです。

だから信仰の生命というものは、
自分の心の中で、わき上がる情なのです。
情がどのように動くかという問題です。

教会の中に、情と情とで結んだ、
自分の父母よりも、兄弟よりも、
情的に結んだ人がいなくては、天との関係がないのです。


だから、イエス様がおっしゃった
「自分の父母よりも、兄弟よりも私を愛せ」との言葉を、
現在ではどう使うかというと、この教会の兄弟のうちで、
だれが一番、公のために、教会のために、
責任をもって苦労するかということになるのです。

特にその中で、だれが一番私のために、責任をもつ
観念とか、心情をもっているかということです。

その兄弟に対して、自分の父母より、兄弟より、
どれほど恋しいかということであり、
これが観念でなく情的に結ばれたなら、
主管性を探したことになるのです。
基準を探したことになるのです。

主管性というのは愛です。


今まで私たちが使っていた「主管性」は、
例えば軍隊で、命令をかける隊長が主管者だとか、
命令して、その一つの命令に全部が動く、
それを主管と言ったのです。

国家の主権者が、全国民に対して、
法律的に主管するとかは、愛ではないのです。
強制的主管と愛の主管、後者が本然の主管性です。


だから、私たちは教会へ通いながら、
言葉によって今まで悲しんだ気持ちを脱いでも、
見物人の立場であれば、喜びはないのです。

しかし、何か得るものはあるのです。
でも、霊的に接触していないのです。
ただ来て、その恵沢を受けるだけです。

光によって暗い部分がなくなるのと同じように、
見物人の立場においても、いいのはいいのです。

しかしうちへ帰ってしまえばどうでしょうか。
自分の家で集まった時には、教会での気分を
もち続けることはできないのです。


だから、責任をもった人は、その一人が
主管性につながっているかどうかを知らなければなりません。

そして兄弟同士、お互いに報告したり、
お互いに何か内面的、精神的に交わるその内容を導いてあげるのです。

教会へ通っても、自分の家庭の内容とか、
精神的悩みとかを全然話さないで、
ただ教会へ通う人がいるのですが、
そういう人は、何年通っても同じで、
結局、サタンから離れられないのです。

それを知って、その主管性につなげなさいというのです。

伝道した人を、またやり直して、
主管性を展開していくのです。

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則
「心情開拓」
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)


「主管は愛である」
これは、真実だと思います。

真の父母様を私の親である、
と実感し、侍ることができたなら、
ともに信仰する人たちは、兄弟姉妹である、
このことを頭で理解するだけでなく、
心情で感じ、実体の関係を持てるのです。

かつてのキリスト教も、
初期のころには、そのような関係であったし、
家庭連合においても、
開拓時代には、そうでした。

しかし、組織が大きくなると、
形式的になりがちです。
そうであってはならないし、
そういう人間になりたくない、と思っています。
自分自身を見ると足りないところだらけですが。。。






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posted by ten1ko2 at 09:10 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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