「悔い改めます」と簡単にいいますが、
本当の悔い改めは、ちょっと基準が高いようです。
奈田先生の「父母と共なる生活」
今回は、『悔い改め』の前半です。
☆
四 悔い改め
罪を自覚した立場の次は、悔い改めの段階に移ります。悔い改めを分析すると、
(1)反省と悔悟、
(2)心の転換、
(3)告白、
(4)罪との決別、
(5)救いの切望
の五つの過程に分けることができます。
「悔い改めなさい」としきりに言われますが、
本当に悔い改めたかどうかを知るためには、
どこまで悔い改めたのかをはっきりと確認する必要があります。
ところが、実際はその確認をしていないことが多いのです。
☆
自分は今、反省と悔悟という段階にあるのか、
心が転換しつつあるのか、
本当に自己を見つめることによって
罪を告白せざるをえなくなっている段階なのか、
はっきりと罪と決別して罪から逃れたいと
切望している段階なのかと確認する必要があるのです。
そのように確認して初めて、救いが自分の願いになってくるのです。
一つの悔い改めというものの中にも、
このような段階があるのです。
☆
(1)反省と悔悟
反省と報告は蕩減生活の原則であるといわれますが、ここで注意しなければならないのは、
内的報告をしなければならないということです。
往々にして、自分自身の内面がどう変わったか、
どういう蕩減生活をして、どういう結果が
現れたかというような報告をすることが少ないのです。
反省と報告の本当の意味は、こういう内的なものなのです。
報告・連絡・相談にも、
外的なものが多いようですが、これは問題です。
反省と悔悟で注意すべき点は、
内的な報告、内的な反省をすることです。
それがないと向上しません。
サタンは内的に自分の中に働くので、
自分の中にある神の性質とサタンの性質とが
見分けられなければなりません。
正直に自分を診る、反省するという方向に
持っていかなければならないのです。
☆
それから、自分中心であるかどうかという問題です。
自己中心性を取り除くことについては、
聖書の中にたくさんのみ言があります。
例えば、テモテヘの第二の手紙三章2〜5節に、
「自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、
高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、
思を知らぬ者、神聖を汚す者、無情な者、
融和しない者、そしる者、無節制な者、
粗暴な者、善を好まない者、裏切り者、
乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
信心深い様子をしながらその実を捨てる者」
とあります。
☆
こういうみ言を一つひとつ挙げて、思い当たるものはないかと
自分をチェックしてみるか、
あるいはコリント人への第一の手紙一三章4〜7節の
愛の記述を取り上げてみるのもよいでしょう。
「愛は寛容であり、愛は情深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、
自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、
すべてを望み、すべてを耐える」
☆
こういう聖句を一つずつ解釈すると、
それを聞いて皆よく反応します。
自分にぴったり当てはまる内容が多いからです。
そういう聖句をいつも繰り返し、繰り返し、読むようにしたり、
聖書で何か心に響くところがあれば抜き書きしたり、
人に読むことを勧めるのもよいでしょう。
そのように、自分で乗り越えていけるような材料を
手元に集めておくとよいと思います。
聖書には、割合容易に気がついて、
内的な課題を乗り越える手助けとなるものがたくさんあります。
そういう生活に密着したものを読んだり、
記憶しておくことは霊の成長に役立ちます。
☆
さらに、自分を中心とした問題だけでなく、
先祖の問題だとか、民族や国家の問題など、
義憤心、公憤心といった「公」に対する気持ちも
どんどん引き出していく必要があります。
悔い改めの気持ちが進み、
自己中心的な思いがだんだんなくなってきて、
初めて「原罪」という問題にぶつかるのです。
その時に初めて、情的問題が堕落の根本にある、
これがあのアダム・エバの犯した問題であったのかと
気がつくようになるのです。
こういう問題に突き当たった時に、
神に本当に近くなっているのです。
ですからその時に、どのように
情的問題を転換するかということが、とても重要です。
☆
アダム・エバが不信仰に陥った過程を見ると、
まず神のみ言を忘れたということです。
これが不信仰の始まりでした。
そしてあくまでも神に相対すべきであったのに、
神を抜かして天使長と横的に相対したということ、
これが誘惑に陥った原因です。
これは中心性の問題としてとらえることができます。
すなわち、自分の内的な生活を何でも神に報告、相談しながらいけば、
エバもアダムも、そういう過ちは犯さなかったということです。
エバやアダムが神に向かうのでなく、
神を通さずに横的に行ったということが、
情を横に流していく原因になってしまったのです。
その結果、不道徳になり、情の用い方を間違ってしまったのです。
そして性的に堕落したから、最終的には
血統的問題として残るようになったのです。
☆
原罪を血統問題として理解することはとても難しいのです。
これは、祝福を受けて初めて実感していく問題なのです。
この血統問題と祝福とのつながりについてこれから述べますが、
その前提になる罪の自覚の段階の方がずっと重要だと思います。
すなわち、「自分は汚れているのだ。自分は本当に汚い、醜い。
自分で自分が嫌だ。風呂に入って骨になるまで自分を磨いてみたい」
というほど悔い改める段階までいかないと、
原罪や血統の問題はなかなか分からないのです。
原罪に関して本当に目覚めていないうちは、
悔い改めに至ったとはいえません。
奈田壽美子
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
「父母と共なる生活
信仰生活の真髄をつかむ」
第一章メシヤ観
四 悔い改め
☆
真のお父様は、
「堕落観念に徹せよ」と語られました。
すでに祝福を通じて、
原罪を清算された立場であったとしても、
罪の中にいた者である、
という自覚と感謝は必要なのではないでしょうか。
罪とは神様を悲しませること、
神様と関係なく、自分中心に生きること。。。
ですから、祝福を受けたからといって、
すべての罪がなくなったわけでは
もちろんありません。
むしろ、自らの穢れや不足を
より感じるようになっているかもしれません。
今は、天一国時代を迎えて、
本然の時代に入った、と言われています。
ある意味、罪と関係ない者に
なっていかなければならないのでしょう。
神様、父母様に出会ったことにより、
救われ、生かされている者である、
そのことを強く感じつつも、
だからこそ、本然の者に近づいていくためにも、
深い悔い改めが必要なのではないかと思うのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)<
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