先月教会長が語られた
日曜礼拝を書き起こしました。
題目は「神に名を覚えられる者に」
今日は核心部分を要約して掲載します。
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。へブル人への手紙11章13節~16節
☆
へブル人への手紙というのは、パウロが書いたであろう
と言われている手紙です。
その中で一番有名なのは
「信仰とは望んでいる事柄を確信し、
まだ見ぬ事実を確認することである」
今までの歴史的な中心人物たちは何をもって
神から偉人とされたか義人とされたかというと
信仰だということを言っているんですね。
今読んだところ(上の聖句)は、これらの中心人物たちは、
自分たちが望んでいることを
「生きている時には見なかった」と言うのです。
けれども自分自身の本当に心が目指していく
その根拠を求めて進んで行った。
それゆえに神様はその人物を良しとされたという話です。
もし自分自身が出発をしてきたところを省みていたのであれば
そのように神は覚えられなかったでしょう。
私たちはモーセ路程を学ぶときに、エジプトに
憧れを持ってはいけないということを教訓として学びますよね。
我々が信仰の道に歩んできた昔の方が
もっと自由だったしお金もあったでしょう、時間もあったでしょう
でもそれを顧みても、何にもならないということを
我々は教訓で学んでいます。
「もし出てきたところを省みていたのであったら」
何もならなかった。
「だから神は彼らの神と呼ばれてもそれを恥とはされなかった」
わかりますか。聖書の中では
神様は自分のことを名前では言わないですよ。
ヤハウェって言い方をしません。
どういう言い方するかというと
「私はアブラハムの神でありイサクの神でありヤコブの神」
だという言い方をされるのです。
それは神様がアブラハムを愛して、そしてイサクを愛して、
ヤコブを愛しているからです。
それはただ一方的に神様が愛しているのではなくて、
その愛に応える歩みを彼らがしたからです。
だから神様は、彼らの神だと言われても恥ずかしくなかった。
普通は堕落して離れた人間だから、
失敗をしたアダムとエバの神だと言われたら
神様は苦しいでしょう。
本当に息子、娘になれなかったわけだから。
もちろんアブラハムは完成したわけではないですよ。
イサク、ヤコブもそうです。
だけども彼らは、その時代において神が願っている
ひとつの事を成し遂げた。
だからアブラハムの神だと言われたときに神様は、
そうだ私はアブラハムの神である
ご自分でこう宣言されながら出てこられます。
ヤコブもまだ家から出て行って出発したばかりのときに
ベテルで神と出会います。
その時に夢の中で神様が現れてきて
私はあなたの父祖である「アブラハムの神である
イサクの神である」といいますが、
ヤコブの神と言わないんですね。
それはヤコブがまだ神様のことを
自分の神だと認めてないからなんですよ。
それでヤコブはその後21年の苦役をして
そしてエサウお兄さんと邂逅(かいこう)して一つとなっていくときに
神様はご自分のことを
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
という形で現れるんですよ。
「そういう者たちの神だと言われることを恥だと思わなかった」
この箇所が私はすごく心に残っています。
わたしたちが神様のことを神様だと慕うことはできるでしょう。
でも逆に神様が私たちのことを
これが私の息子である、娘であるというところまで
私たちが入れているのかどうかということですよね。
だからただ自分の納得するような人生を
生ききったということだけではなくて、
神様が本当の意味でこの息子は正しい息子だった
娘だったと言われるその基準に言えているかどうか
ということが、私たちが本心の中で願う人生の基準なのです。
それが、私たちが信仰を歩んでいるということなのです。
私たちはただ言われることを、はいわかりましたと
純朴に受け入れる、でこの純粋な姿勢というの
私はすごく大切だと思っています。
過去のその信仰者たちもみんな純粋でした。
純粋であって愚かではなかった人たちですよ。
だけども私たちのその歩みというのが、本当の意味で
我々の心の中で神様を慰めるような、
父母様を慰める思いを持って歩んでいるかどうかです。
神様は世界の復帰を目指され、人類の幸福を願われているわけです。
だから私たちは神様に何をすべきでしょうかと聞いた時に
神様が言われることは何かというと、
まだ私のことを知らない者たちに私のことを伝えてほしい
私の愛を伝えてほしいということを言われるのです。
だから私たちは横的な関係が大切です。
その関係を切ってはいけません。
神様が愛するように私たちは、隣人を愛さなければいけない。
そうしてこそ、私たちの本当の幸福になっていくのです。
我々の生活の中で隣人を愛し、またもちろん家族を愛し、
そして地域を愛し、社会を愛し、世界を愛して
国を愛せるものになっているかどうか。
それもまた神様が私たちを覚える一つであります。
ただ教会で指示があったことを黙々とやるということだけではない
もちろんそのことをしながら、私たちが
心豊かになっていくということが、非常に大切なことなのです。
それが神様が私たちの名前を覚える
そういう証拠であるというふうに思っております。
「神に名を覚えられる者に」
松戸家庭教会
渡辺一喜教会長
日曜礼拝説教より
松戸家庭教会
渡辺一喜教会長
日曜礼拝説教より
☆
私がみ旨を歩む上での動機に対し、
とても原点に返らされる、
自分自身を正されるみ言でした。
説教を聞きながら、
真のお父様のみ言を思い出しました。
「自分の生涯は、誰にも
覚えられなくていいけれど、
しかし、神の名によって死んだ、
墓に神の名が刻まれれば、
私はそれで十分だ」
正確ではありませんが、
そのようなみ言だったと思います。
「私は、アブラハム、イサク、ヤコブの神である」
このように言われ、彼らはどれほどうれしいことでしょう。
また、神様ご自身も誇りに思っていらっしゃるのです。
周りや外的なことを見つめ、誇りに思うのではなく、
神様、父母様を見つめ、喜んでいただくこと、
そこに意識をしていきたいと思います。
続きます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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