李相軒(イ サンホン)先生の著・「共産主義の終焉」は、
真の父母様の勝共決起大会、興進様の聖和(逝去)、
ダンベリー収監、一勝日に至る
摂理に直結した素晴らしい業績です。
執筆に責任を持たれた大谷先生が、
李相軒先生を偲ばれた寄稿文の後半を紹介します(1997年)。
☆
私が李先生とともに歩んだ中で忘れることのできないのは、
『共産主義の終焉』(1984年)と、
その英語版(1985年)の出版の仕事です。
1980年にアメリカの教会のリーダーが二陣に分かれて
韓国に来て、李先生より統一思想を学びました。
第二陣を率いて来られたのが朴普煕(パク ポウヒ)先生で、
その年に始まったカウサのスタッフたちが参加したのです。
セミナーの後、朴先生は李先生に
「今、南北アメリカは共産主義によって
大変な脅威を受けています。
どうか勝共理論の学術的に完全なものを作ってください」
と依頼されました。
李先生は、それをお父様に報告され、
新しい勝共理論の本
『共産主義の終焉』の執筆を決意されたのです。
☆
ところが当時、韓国は反共政策のため、
マルクス主義の本を持っていると
検挙されるというような状況でした。
そこで李先生は日本に来られ、理論メンバーを集めて
「日本は共産主義の文献がたくさんあるでしょう。
それを整理して提供してください」と語られました。
私はそれまでは統一思想だけで勝共理論には
携わっていませんでしたが、
『これは重要な仕事だ。ぜひともやりたい』
と強く迫ってくるものがありました。
それで何かに押し出されるようにして資料を集め、
整理する仕事を始めました。
そして、いつの間にか私が責任を持つようになっていたのです。
それから85年までの5年間は共産主義との闘いでした。
寝ても覚めても「マルクス 、マルクス」という状態です。
時間のたつのも忘れて没頭した日々でした。
☆
そしてようやく、『共産主義の終焉』の原稿が
出来上がろうとしていた1983年12月、
突然、韓国の八大都市で全国勝共決起大会が開かれたのです。
それは神とサタンの興亡をかけた闘いでした。
12月22日夜、私は李先生とともに
最後の八番目の都市、光州に行きました。
その夜、李先生より烈火のごとく怒られたのです。
「この本(『共産主義の終焉』)は、今この時に
出版されていなければならなかった 。
あなたがたがこの世の学者のように、完全性ばかり追求して、
どんどん時間を延ばしてしまった」と言われたのです。
あまりにも激しく怒られ、私はその夜、
光州の旅館の一室で一睡もできませんでした。
ところがそのとき、アメリカで興進様が事故に遭われたのです。
ソウルに帰る車の中でも、李先生の怒りは治まりませんでした。
そのときのことは、忘れられません。
霊界が大きく揺れ動いた一時であったと思います。
☆
そうして日本に帰る時、李先生から
「日本に帰ったら四十日以内に出版しなさい」と言われました。
李先生は日本語が堪能であり、資料が日本語だったので、
日本語の原稿が最初に出来上がったのです。
そうして、1984年2月に日本語版の
『共産主義の終焉』が出版されました。
☆
ところが、李先生は
「日本語では世界に影響を与えられない。
英語版をつくりなさい」と言われたのです。
そこで、日本の統一思想研究院で英訳し
84年暮れに出来上がりました。
その原稿を持って李先生のところへ行くと
「あなたは、この原稿をもってアメリカへ行き、
40日以内に本を出しなさい」と言われたのです。
☆
私は悲壮な思いで、12月の暮れにアメリカに出発しました。
かつて、1980年に韓国で統一思想を学んだ
メンバーの一人を頼りにして、仕事を始めたのです。
彼は大学院で言語学を専攻していて、忙しい身でしたが、
「これはとても重要な仕事だから、
すべてを犠牲にしてやってほしい」と、彼に訴えました。
李先生からは連夜のように「どこまでやったか。
早くやりなさい!」と電話がかかってきました。
私は謝るばかりで、その兄弟にプレッシャーを
かけるしかありませんでした。
ところが、その兄弟は次第に苦しくなって失踪してしまったのです。
そのときの私の挫折感は、今も忘れることができません。
結局、その兄弟は二度にわたって失踪したのですが、
そのたびに帰ってきました。
40日間の予定が、7か月もかかって
1985年7月の初めに英語版が出来上がったのです。
☆
イーストガーデンのお父様のところにお持ちすると、
「よくやった」 と労をねぎらってくださいました。
後でわかったことですが、1985年8月15日が
40年荒野路程の期限であり、その日までに
共産主義とソ連帝国の崩壊を
世界的に宣言しなければならなかったのです。
辛うじて期限に間に合い、摂理にかなうことができ
李先生の面目を立てることができました。
1983年から85年にかけて、ほんとうに緊張した状態で、
李先生とともに歩ませていただきました。
☆
最後に、李先生が私たちに語ってくださったことで、
今私の心の中に残っていることを挙げると次のようなことです。
「統一思想は、決して私(李相軒)の思想ではありません。
お父様の思想です。
私はただお父様のみ言を整理して体系化しただけです」
「研究をして論文を書くとき、
献祭する気持ちでしなくてはなりません。
天にささげて 、それを用いてくだされば感謝し、
受け入れられなくても不満を持ってはいけません。
自分なりに自信たっぷりに、絶対にこれを認めてください
というような態度ではだめです。
自分というものがあれば、天は絶対に受け入れられません」
「我々は天を高め、真のご父母様の偉大さ、
原理の偉大さを証しするという姿勢で
研究をしなくてはなりません」
「草創期にお父様が『天は地を探し、
地は天を求める』と語られました。
私たちは地の知識を聖別して天につなげる使命を果たすのです」
☆
今、李相軒先生は昇華されました。
私は頼りとする柱を失った思いです。
しかし、李先生の教えを受けた者たちが使命を相続して、
統一思想を世界に輝かせなくてはならないと思っています。
寄稿 大谷明史
統一思想研究院 副院長 777家庭
「李相軒先生を偲んで」
『ファミリー』より
統一思想研究院 副院長 777家庭
「李相軒先生を偲んで」
『ファミリー』より
☆
これと全く同じ内容の証しを、済州島修錬会で
直接、大谷先生から伺いました。
大谷先生は、とてもソフトな語り口調でしたが、
内容は、読まれたごとく、壮絶であり、
かつ摂理的にも重要な証しでした。
「共産主義の終焉、ソ連帝国の崩壊」を宣言しなさい
と言われたモートンカプラン教授が
「おそらく(maybe)」をつけてもいいか、
何度もお父様に尋ねられたことが、
お母様の自叙伝にも書かれていますね。
その背後において、この大論文である
「共産主義の終焉」を執筆することに
また一つの重要な摂理的意義があったことを
改めて認識させていただきました。
また、最後に紹介された李相軒先生の教訓の一つひとつが
あまりに素晴らしく、
とても厳しい方であったということですが、
お父様と、天の摂理の前には、
ここまで謙遜に侍られるな方であったのだと
感じ入るものがありました。
李相軒先生、大谷先生、
本当に感謝申し上げます。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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