2021年10月31日

激動の人生、結核で死を覚悟したとき、神との出会いが・・・ 《松本ママ奮戦記》



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松本ママの「信仰は火と燃えて」より
今回は、『青年宣教師との出会い』の
前半をお送りします。

 
時は流れ、三人の子供は大きくなり、昼働いて夜学に通い、
世の荒波にもまれて強く育っていきました。

娘の一人は、英語がうまく頭もいいのですが、
韓国人だということが分かると、普通の会社では雇ってくれません。

娘は、なぜそんなに差別するのか、
昔日本の植民地だったからなのかと、
日本を憎み、絶対日本の名前を使わなくなってしまいました。
そして、アメリカ関係の会社に勤めるようになったのです。

 
私は友人の紹介でポーラ化粧品の
セールスマンをやることになりました。
そこの責任者は、私をちらっと見て、
ああ朝鮮人かと思ったようすでした。

ポーラは、10万円ぐらいの化粧品の入った箱を
一人一人に預けるわけですから、
「ああ朝鮮人にはどうせろくなやつはいない。
悪いことばかりしているから、とても10万円のカバンを
預けることはできない」、そう思ったのでしょう。

ところが私の二人の日本の友人は、
「この人はクリスチャンで、とてもいい人なんですよ。
どうか使ってやってください」と、
保証人になって一生懸命頼んでくれたので、
しぶしぶ雇ってもらうことができたのです。

けれども、最初はとても冷たくされ、
私は心中、ヨーシ、今に見ておれ! という思いでした。

言葉もろくにできない上に、日本人に頭をさげて
ポーラのセールスをしなければならないということは、
内心とてもつらいことでした。

けれどもいつも面倒を見てくれた兄でさえ、
その時は焼け出されて、
どこかへ行ってしまっていたのです。

会社では販売競争が始まり、
私はカバンをさげながら祈って泣きました。

神様は分かりませんでしたが、
イエス様の偉大さは分かっていたので
「イエス様、あなたは本当にこの地上に来られるんですか」
と祈ったのです。

子供のためだと思いながら、並々ならぬ決意をして
ポーラ化粧品の販売をしました。
4年間ポーラ化粧品のカバンを持って
一生懸命働いたのです。

最初はなかなか実績が上がりませんでしたが、
必死で努力した結果、ついには一番になりました。
支店長が私の顔を見ながら褒めて大事にしてくださり、
それからは一流セールスマンとして
優遇されるようになりました。

つらい4年間でしたが、あとで振り返ってみると、
それは神様の訓練でした。

10歳のとき、お菓子をもって神様は私を導き、
今また化粧品のセールスをさせて、
成約時代の最初の開拓者とするために準備されたのでした。

 
この間、最もつらく悲しかったことは、
息子が韓国に強制送還されたことでした。

終戦後、三人の子供を韓国に置いたまま
行ったり来たりしているうちに、
登録令が敷かれて韓国に行けなくなってしまいました。

2、3年後、親しい友人が引揚船をしたてて
子供を連れて帰ってきてくれましたが、
その時、登録をしなければならないことを知らず、
そのまま過ごしていたのです。

登録令が敷かれた当時は、
兄が私の分も登録をしてくれたし、
韓国と日本が違う国になったという意識すらありませんでした。

それが、10年ぐらいたってから、不法入国だということで
三人の子供は日本の警察につかまってしまったのです。

私は日本の法務省を相手に、
「この子供たちは二世です。
韓国語も分からないし、母親のところにいるべきです。
日本が韓国を支配していたときは、日本人になれといって
名前まで変えさせて、今、日本で生まれた子供を
強制送還するとは何ごとですか」と闘いました。

その結果、娘二人は何とか取り戻しましたが、
息子は強制送還されてしまいました。

「私たちもみんな韓国へ行こう」と言うと、
息子は「来なくてもいい。
韓国の言葉が分からなくても、私は男だから大丈夫です。
お母さんは、お姉ちゃんたちと一緒に
おじさんのところにいてください。
また日本と韓国が国交回復すれば会うことができます」
と反対に私を慰めてくれました。

しかしそういう親子の悲しい別れを経験したものですから、
神様の愛に対して疑いをもってしまいました。

  
子供たちは、私の希望でした。
娘が立派な生活をし、いいところに
お嫁に行ってくれることを望みました。

そして、もう一つの望みは神を探すことでした。

ところが、私はあまり働き過ぎて、
ついに肺に空洞ができる寸前になり、
6カ月間、入院して安静にしていなければならないと
病院から宣告されました。

兄の家の離れを借りて、大きな病院が空くまで
養生しながら待っていましたが、
日に日に顔はやせ、今にも死にそうな顔になっていきました。

私は、もう死ぬのか、と思いました。

「あの世には天国と地獄があるというが、
私はきっと地獄に行くに決まっている。
うそ八百を言ってお金をもうけ、神様に対して何もせず、
自分のために食べて生きてきた。
私のような人間はくずだ」と自分で思いました。

しかしまた、心のどこかで、神様、どこにいるんですか、
と神様を探しているのでした。
死を目の前にしてあれこれ考えると、
本当に神経がおかしくなりそうでした。

  
あと、2、3日で病院の部屋が空くということになりました。

もう教会の鍵(かぎ)を預かる仕事もできないので、
ある日、私はその鍵を牧師のところに返しに行きました。

1960年の半ば、私が鍵を返しに行ったちょうどそのとき、
日本に宣教に来ていた西川勝先生が
その牧師のところに来ていたのです。

「私は結核になりました。
入院しなければならないので、この鍵をお返しします」
と言うと、牧師は、
「松本さん、悲観しなくてもいい。
大丈夫だ、神様があなたのような人を見捨てるはずがありません」
と言って慰め、一緒に祈ってくれました。

そして、「すばらしい宣教師を紹介します」と言って
西川勝先生(韓国名、崔奉春)を紹介してくれたのです。

松本 道子・著
(光言社・刊『信仰は火と燃えて―松本ママ奮戦記―』より)

信仰は火と燃えて 2
青年宣教師との出会い

(blessed lifeより)


私たちが、教会に導かれる時、というのは、
神様が働いていることを感じますが、
松本ママと西川先生との出会いも、
まさに劇的だな、と思います。

神様を恨み、わからないといいながらも
心の底では求め続け、
イエス様に祈り求めてきたことを
天は覚え、準備してくださっていたのでしょう。

松本ママはとうとう結核になり、
人生は終わりだと思うどん底まで来て、
西川先生との出会いがありました。
後半をお楽しみに。




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posted by ten1ko2 at 08:39 | Comment(0) | 草創期の証し(韓国・日本) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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