2021年11月30日

過去を清算しながら、未来もつくっていく! 《奈田先生*父母と共なる生活》



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奈田壽美子先生の「父母と共なる生活〜信仰生活の真髄をつかむ
今回は、『祝福家庭の使命』の1回目です。

30年前のものですので、
それを考慮してお読みください。


これまで神の心情の体恤ということについて、
創造原理的立場と復帰原理的立場という
二つの立場があると学んできましたが、
人間はそのような二つの使命を持っているのです。

私たちはあくまでも、
原理圏から出発しているのではありません。
過去を引きずっていますから、
それを清算しながら行かなければなりません。

それと同時に、未来をつくっていかなければなりません。

 
@過去の清算の道

過去を清算するとはどういうことかというと、
神の歴史的心情を知ることであり、
神の悲しみや恨みをはらす道を歩むことです。

神の歴史的心情を知るということは
霊界を知ることであり、それが宗教の道です。

歴史において縦的な立場(宗教)で先に条件を立てて、
それが横的(政治・経済)に展開されていくのです。


ですから私たちも最低限、自分の過去を清算してから、
祝福を受けなければなりません。

私たちが過去を清算するためには、
本然のアダムとエバの立場に立ち帰る必要がありますが、
その立場は、私たちが自分で取り戻すことはできないのです。

祝福を受けた立場というのは、
堕落以前のアダム・エバの立場である
とよく説明しますが、その立場は
アダム・エバそのままではないのです。

堕落性という「荷物」が
いっぱいくっついているのです。

ですから、すぐ愛したいといっても
愛せるわけではないし、
愛したくないと思っても愛さなければならない
という矛盾の中にいることになります。


堕落しない完成した立場に立つ人物として、
神の愛の理想圏を世界化させるための責任をもって、
今日統一教会はこの地上に現れるようになったのです。
旧約時代には祭物を通して血を流してきました。

新約時代には人が血を流してきました。
それでは今日、我々の統一教会時代には
どのようなことが起こるのでしょうか。

愛を中心として、犠牲の血を流していくのです。
愛を中心として犠牲の血を流すということは、
どんなことか分かりますか。

統一教会時代になって、皆さんの家庭に
複雑な問題が起こってくるのです。

堕落によって人間は神を失い、
次には天使世界を失い、万物を失い、
人を失い、その次には愛の責任を失ったのです。

……先生が今まで歩んだ道というのは、
愛の十字架の道を代表となって
歩んでいるということを、
皆さんは知らなければなりません。


(一九七八・一〇・二二)


ですから、祝福を受けて家庭を持っても
いろいろなことが起こるのです。

例えば、相対者は自分の好きなタイプどころか、
一番合わないタイプであったりします。

しかし、それでも一生懸命努力していった結果、
一番合うタイプになったということがよくあるのです。

そのような結婚観は一般的ではありません。
常識では考えられないことです。

しかし、私たちの場合は
一つの心情的愛の十字架や犠牲の道を強いられたとしても、
それが最高のカップルになるというのです。

私たちはむしろそういう道を自ら進んでいき、
二人が本当にいつも一緒にいたいという心情圏に立てば、
堕落したアダム・エバの立場を超えることができるのです。


文先生ご自身がそういう複雑な愛の関係を
たくさん通過してきておられます。

先生のお母様*の話がよく出てきますが、
お母様に対する先生の愛は
本当に深かったに違いありません。

そのようにお母様に対する深い思いがあっても、
興南の刑務所へ面会に来られたお母様に対して
統一原理の一端すらも説くことができなかったのです。

親がそこにいても愛することができない、
子がそこにいても愛することができない
という愛の十字架の峠を越えて来られたのが
文先生だったのです。


それに比べたら、私たちの道は
全然難しくない、ごく普通の道なのです。

この社会には、子供を保育所に預けて
共稼ぎしている夫婦がたくさんいます。

しかし、それは必ずしも心情的な
犠牲の道を歩んでいるのではなく、
自分の目的で自分の思いでやっている場合が多いのです。

私たちの場合はそれとは大きく違います。
形は同じでも、神のためにやっているからです。
ですから、子供の言うことであっても
おいそれとは聞けません。

子供たちには、「お父さんは神様のお仕事、
お母さんも神様のお仕事」としか言えません。

このようにして子供自身も、小さい時から
神様の仕事のゆえに父母に会えなくても
我慢するという情的な犠牲の道を歩んでいるのです。


私たちは愛や憎しみを超えて、
神への情的な供え物をしているのです。
そういう供え物がたくさんあれば、
それが、その家庭、その夫婦の宝物になるのです。

「私たちの家庭はこういう愛を犠牲にしてきました」
と言える内容が、永遠に語り継がれて宝物となることでしょう。
私たちの家庭にはそういう宝を遺していきたいものです。

そのためには、それぞれの夫婦、家庭が
確たる目的を持って歩まなければならないのです。

第四章 父母観(その三)
三 復帰過程における神の心情の体恤
(1)祝福家庭の使命

父母と共なる生活 信仰生活の真髄をつかむ」
1991年5月1日 初版発行
奈田壽美子(なだすみこ)
(1940.1.5〜1989.3.7)


「祝福家庭の使命」は、今も昔も変わらないはずですが、
冒頭でもお伝えしたように、30年前のみ言ですので、
今の立場より、ずいぶん厳しい感じがしますね。

奈田先生をはじめ、昔の先輩がたは、
まさしく家庭を犠牲にする道を歩んでこられました。
本当に敬服いたします。

もちろん、そのような道を歩まれたのは、
すでにそれ以上の過酷な道を歩まれた、
真の父母様、真のご家庭がいらっしゃったのだ。。。
そのことを感じます。

その土台があって、今の私たちがあるのだということを
改めて認識しなければならないでしょう。

以前は愛する人を愛することができない時代でしたが、
今の時代は、家族や愛する人を、
愛することができますし、
努力した分、実りやすい時代となりましたので、
感謝して精誠を立てていきたいと思います。




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posted by ten1ko2 at 09:34 | Comment(0) | 信仰生活・信仰講座・礼拝説教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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