2022年02月09日

(証し)無神論から一転、痛哭と懺悔の7日7晩のあとの奇跡 《周藤先生》



220209.jpg


世界家庭に周藤先生の証しが掲載されています。

表題は、
「無神論者の私が神様の懐に抱かれる」

周藤先生が、腎臓を患い
大学を休学し療養していたとき──

生長の家の書籍に触れ、
大きな気づきを得るようになりました。
強烈な神霊体験、奇跡の証しです。


懺悔と痛哭の一週間が過ぎ八日目に与えられた神癒

そして、自分のことを振り返ってみると、
それまでの二十数年間の自己中心的な人生が
次から次に浮かんできて、自分の中に
あまりにも多くの悪と不純なものがあることに気づきました。

私は、愛の減少惑の問題を抱えていました。
また、自分の中にある淫らな思いに苦悩することもあったのです。

『自分はなんと汚れた人間なのだろうか。
 もし、このような多くの醜さに満ちたまま死ぬとすれば、
 自分はなんと惨めな人になってしまうことだろうか』
と思いました。

外的には楽しそうにしながらも、根底には、
どうすることもできない、自分も許せないほど
醜いもの、汚れたものがいっぱいあることに気づきました。

また、それ以上にショッキングだったことは、
自分が今まで、真の意味において
誰をも愛してこなかったことに気づいたことです。

そのことを悟ることにより、自分がいかに
惨めな立場に置かれているかがはっきりと分かり、
孤独は一層深く、苦痛を伴うものとなっていきました。

私は、精神的にも、肉体的にも、
自らの足で立つことができていなかったのです。

自分自身の醜さに耐えられなくなり、
死んでも地獄に行くしかないことが分かりました。

大学で何を学んだかなど、そのようなことは
一切、関係ありません。
自分を許すことができず、また、
解決することもできない自らに直面したのです。


そこで初めて、懺悔という経験をしました。
痛哭したのです。

悔いの涙が頬を伝い、枕に落ちていきました。
七日七晩、私の寝床と枕は涙でぐしょぐしょにぬれていました。
それほど泣いたのです。

自分の醜さをどうしていいか分からず、
『赦してください。これを、どうしたらいいでしょうか』
という思いで懺悔と痛哭の一週間を過ごしました。

その間、私の中の不正なものや不純なものが、
悔い改めの涙によって流されていくような感じがしました。
それまでの人生で、それほどの
平和と清さを感じたことがありませんでした。


そして、八日目(1954年8月2日)は、
ちょうど村のお盆の祭りが行われる、蒸し暑い日で、
私一人が家に残されていました。

この日に、「甘露の法雨」を手にしました。
これは、生長の家の核心の教えを伝えるもので、
前に読んだ本よりも深く、心を大きく揺り動かされました。

その日の夜八時頃、一人で家にいて布団に横になっていました。

そのとき突然、『宇宙をコントロールしている
聖なる何かが存在するに遠いない』
という確信を得たのです。

私は生まれて初めて手を合わせ、祈りました。

するとその次の瞬間、まるで頭の右斜め上から
バケツ一杯の氷水を浴びせられたような体験をしました。

寝床の上にはバケツも洗面もありません。
天からの霊的な清めの水だったのです。
私の罪滅れに対する天からの清めの冷水でした。

続いて、頭の真上からさし込んできた、
純金と白金が一つになったような白金色の光が広がり、
私の全存在を包み込んでしまいました。

次の瞬間、直径二、三センチの真っ赤な火の柱が
脳天を通って私の全存在を貫き通したのです。
これらはわずかな、数秒もない瞬間的な出来事でした。


私は自分がどこにいるのか、今がいつなのか、
何が起こったのかも分からず、正に茫然自失で、
身も心もまひした状態でした。

そのような状態で五分たったのか、十分たったのか分からず、
急に背中がおかしいと感じたので、自然と手を当ててみると、
今まで一年間病んでいた腎臓が右も左もビーっと震えていました。

その瞬間思わず、『神様、神様、神様』
と心で必死に呼んでいたのです。

「神様なんかいないんだ。
 神様なんかいてたまるものか」
とさえ言っていた私が、神様の懐の中に
しっかりと抱き締められている自分を発見したのです。

人間の力でも、医学の力でもどうすることもできない病を
一瞬にして癒してくださった、
超越者である神様の愛を実体験したのです。


翌朝、自分で尿検査をしてみました。
試験管に少し尿を入れて、そこに試薬を入れるのです。
それまでは、たんばく尿が出ていたので、
病気になってから一年間は、いつやってみても真っ白になりました。

ところが、この朝は、試薬を入れても白くならず、
透き通っていたのです。
二日目も、三日目も、四日目も、透き通っていました。
どれほどうれしく、感謝にあふれたことでしょうか。

周藤健
真の父母と共に歩んだ人生(一)
「無神論者の私が神様の懐に抱かれる」
世界家庭2022年12月号


一週間も懺悔するというのは、すごいですね。
それに比例するように、
強烈な奇跡を神様が返してくださいました。

大阪大学理学部に入られた周藤先生。
突然、腎臓の病気を患い、
故郷で療養することになりました。

そんな中で生長の家の証し集を手にし、
さらに創始者谷口雅春氏の
「生命の実相」に感銘を受けました。

(今日は、その後から掲載させていただきました。)

周藤先生は、無神論でしたし、
自分の人生にも疑問を感じていませんでした。

病気によって、限界を感じるようになったことで、
生長の家の証しに触れるのですが、
証しを読んでも、最初はなんの
気づきもなかったといいます。

しかし、懺悔に至るようになって、
究極まで自分を追い詰めた時、
神様が周藤先生を抱かれました。

神様を知るためには、
悔い改めが大切だとは聞きますが、
そのわかりやすい実例ですね。

病気も治ってしまった、というのは、
原理でいうところの「生霊要素」の働きだと思います。
奇跡というのは、実は起こるべくして
起こるのかもしれません。

神様が生きて働いておられることを
感じさせていただきました。

続きます。





にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。