2022年02月16日

過去の信仰にとどまっていませんか? 続マルタとマリヤ 《李ヨハネ先生の信仰サプリ》



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李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「マリヤとマルタ」に関するみ言の続き。
今回は、「軽々しい判断」です。


ほとんどの男性の考えを、ユダが代表的に発表したのです。

男性たちは、自分が今まで真剣に考えてきたという
情の土台の上で判断しないで、ただ環境を見て軽く判断したのです。

また、女性の代表として、マルタは
過去に暮らしてきた自分の基台の上に
イエス様を知ったつもりで、今信じているのです。

初めてイエス様に会い、み言に触れた因縁で
イエス様を信じ、ラザロを復活させたとか、
以前の説教によって刺激を受けたとかいう因縁で、
今付き合っている。

だからマルタは過ぎ去ったイエス様は知っているが、
今のイエス様は知らないのです。


「マリヤは今のイエス様を知っている。
現在というところで実感して、
イエス様の悲しみを痛哭している」。

これが、永遠の価値のある因縁を結んで、
永遠をもって暮らすことです。
今までの情のレベルを高めながら暮らす人が、
永遠性をもった人です。

「マルタは以前の因縁をもって、今早くイエス様に侍りたい。
疲れて帰られるのを見て、イエス様の内容を知らないから、
外的に仕事ばかり一生懸命やる」。

これは過去に暮らしているから、
過ぎ去ると恥ずかしくなってしまうのです。


「律法主義者、祭司長なども、モーセを信じ、
アブラハムの子孫だと思っている」。
これも、今に生きていながら昔を考えて信仰しているのです。

今、既成教会も二千年前のイエス様を信じているのです。
歴史的人物を崇拝して何になるのか? 

目の前の人をイエス様のごとく愛さないと、
今の人間ではないのです。


今の人間を歴史上の人物より以上に貴重にする人は、
未来を開拓できる可能性のある人です。
未来が問題なのです。

今までの因縁をもって今の自分を取り扱ったら、
過ぎ去った人間になってしまう。
「今」というものを相続できないのです。


カトリックは、現世にいるようではあるけれども、
二千年前の旧約時代の信仰をもっているのです。
だから彼らは今の時代をつくるものではない。

死ぬと二千年前、旧約時代の霊界へ行くようになるのです。
行ってみるととんでもない所へ行った。
イエス様は現れなかったというのです。

旧約時代の儀式を貴重にして厳しく守ったところが、
一九七一年には地上にいたけれども、霊界ではどこへ行くかというと、
二千年前の霊人のところへ行くのです。

なぜなら、その時の信仰をもっていたから、それは当然です。

 
未来を信仰した者は永遠に生きるのです。

だからイエス様とかヤコブは今も生きているのです。
永遠の価値をもったから、神の摂理が勝利し、
成し遂げるまで、ヤコブは生きて
イエス様と共に仕事をしているのです。

今、地上の摂理を共に行っているのです。
なぜなら、その心情はいつまでも、
地の果てまで影響力があるからです。

 
私たちは、例えばけさ、何かの新しい情を実感して暮らせば、
未来に暮らしている人だけれども、
きのうの因縁によってやむを得ずけさ出発した人間は、
もはや過ぎ去った人間になってしまうのです。

このことをよく知らなくてはなりません。
三人の中のマルタは、過ぎ去った信仰をもち、
初めてみ言に触れた時の因縁によって喜んでいるから、
きのうのイエス様は知らないのです。

私たちもそうではありませんか? 
朝皆さんが別れて再び集まる時には、
朝は知っていたけれども、きょう一日
どんなに神経を使って帰ったかを知らない以上は、
知らずに会っているのです。

別れてから会うまでのその内的心情を知らないから、
自分は謙遜になって本当にその人を
貴重に思いながら交わろうとするのが、
本当の、永遠に内情的に交わる食口なのです。
8.永遠に生きる信仰
「軽々しい判断」

信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰

(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
(ここに出るマリヤはベタニヤのマリヤ
マルタが姉、ラザロが弟)
※下に関連の聖書の部分を掲載します

イエス様に侍るマリヤの姿は、
私たちの信仰生活の基本、
原点を教えてくださっています。

過去のイエス様を求めるのでなく、
今のイエス様に侍ること、
それが永遠性を持った信仰である、といいます。

ヨハネ先生は、食口に対しても、
そのような見つめ方をしなければならない、
と言われています。

食口に対する見つめ方、
「〇〇さんは、こういう人だ」
という価値観を持つのではなく、
初めて出会った〇〇さんである、
そういう貴い見つめ方をするのですね。

新鮮な心情を持って、私を見つめ、
食口を見つめ、接していく、
そのような者にならなければと思います。






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過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
(ヨハネによる福音書12章1節〜12節)


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posted by ten1ko2 at 09:57 | Comment(0) | 李ヨハネ先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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