李耀翰(リ ヨハネ/イ ヨハン)先生の
「マリヤとマルタ」に関するみ言の続き。
今回は、「軽々しい判断」です。
☆
ほとんどの男性の考えを、ユダが代表的に発表したのです。
男性たちは、自分が今まで真剣に考えてきたという
情の土台の上で判断しないで、ただ環境を見て軽く判断したのです。
また、女性の代表として、マルタは
過去に暮らしてきた自分の基台の上に
イエス様を知ったつもりで、今信じているのです。
初めてイエス様に会い、み言に触れた因縁で
イエス様を信じ、ラザロを復活させたとか、
以前の説教によって刺激を受けたとかいう因縁で、
今付き合っている。
だからマルタは過ぎ去ったイエス様は知っているが、
今のイエス様は知らないのです。
☆
「マリヤは今のイエス様を知っている。
現在というところで実感して、
イエス様の悲しみを痛哭している」。
これが、永遠の価値のある因縁を結んで、
永遠をもって暮らすことです。
今までの情のレベルを高めながら暮らす人が、
永遠性をもった人です。
「マルタは以前の因縁をもって、今早くイエス様に侍りたい。
疲れて帰られるのを見て、イエス様の内容を知らないから、
外的に仕事ばかり一生懸命やる」。
これは過去に暮らしているから、
過ぎ去ると恥ずかしくなってしまうのです。
☆
「律法主義者、祭司長なども、モーセを信じ、
アブラハムの子孫だと思っている」。
これも、今に生きていながら昔を考えて信仰しているのです。
今、既成教会も二千年前のイエス様を信じているのです。
歴史的人物を崇拝して何になるのか?
目の前の人をイエス様のごとく愛さないと、
今の人間ではないのです。
☆
今の人間を歴史上の人物より以上に貴重にする人は、
未来を開拓できる可能性のある人です。
未来が問題なのです。
今までの因縁をもって今の自分を取り扱ったら、
過ぎ去った人間になってしまう。
「今」というものを相続できないのです。
☆
カトリックは、現世にいるようではあるけれども、
二千年前の旧約時代の信仰をもっているのです。
だから彼らは今の時代をつくるものではない。
死ぬと二千年前、旧約時代の霊界へ行くようになるのです。
行ってみるととんでもない所へ行った。
イエス様は現れなかったというのです。
旧約時代の儀式を貴重にして厳しく守ったところが、
一九七一年には地上にいたけれども、霊界ではどこへ行くかというと、
二千年前の霊人のところへ行くのです。
なぜなら、その時の信仰をもっていたから、それは当然です。
☆
未来を信仰した者は永遠に生きるのです。
だからイエス様とかヤコブは今も生きているのです。
永遠の価値をもったから、神の摂理が勝利し、
成し遂げるまで、ヤコブは生きて
イエス様と共に仕事をしているのです。
今、地上の摂理を共に行っているのです。
なぜなら、その心情はいつまでも、
地の果てまで影響力があるからです。
☆
私たちは、例えばけさ、何かの新しい情を実感して暮らせば、
未来に暮らしている人だけれども、
きのうの因縁によってやむを得ずけさ出発した人間は、
もはや過ぎ去った人間になってしまうのです。
このことをよく知らなくてはなりません。
三人の中のマルタは、過ぎ去った信仰をもち、
初めてみ言に触れた時の因縁によって喜んでいるから、
きのうのイエス様は知らないのです。
私たちもそうではありませんか?
朝皆さんが別れて再び集まる時には、
朝は知っていたけれども、きょう一日
どんなに神経を使って帰ったかを知らない以上は、
知らずに会っているのです。
別れてから会うまでのその内的心情を知らないから、
自分は謙遜になって本当にその人を
貴重に思いながら交わろうとするのが、
本当の、永遠に内情的に交わる食口なのです。
8.永遠に生きる信仰
「軽々しい判断」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
「軽々しい判断」
信仰生活シリーズ 5
心霊を育てる生活原則「心情開拓」李耀翰
(「信仰と生活 第一集 原理の生活化」増補、改編)
☆
(ここに出るマリヤはベタニヤのマリヤ
マルタが姉、ラザロが弟)
※下に関連の聖書の部分を掲載します
マルタが姉、ラザロが弟)
※下に関連の聖書の部分を掲載します
イエス様に侍るマリヤの姿は、
私たちの信仰生活の基本、
原点を教えてくださっています。
過去のイエス様を求めるのでなく、
今のイエス様に侍ること、
それが永遠性を持った信仰である、といいます。
ヨハネ先生は、食口に対しても、
そのような見つめ方をしなければならない、
と言われています。
食口に対する見つめ方、
「〇〇さんは、こういう人だ」
という価値観を持つのではなく、
初めて出会った〇〇さんである、
そういう貴い見つめ方をするのですね。
新鮮な心情を持って、私を見つめ、
食口を見つめ、接していく、
そのような者にならなければと思います。
過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。
大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。(ヨハネによる福音書12章1節〜12節)
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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