2022年03月16日

そして死の収容所へ 飢餓を生き延びるために、主が選んだ″神”過ぎる方法 《金元弼先生》



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金元弼先生のみ言。
今回は、「興南監獄での食事」です。


一九四八年の五月二十日に、(文)先生は金元徳さんと一緒に
平壌から相当離れていて全然方向の違う
興南という所に移ったのです。

咸鏡南道興南監獄(徳里特別労務者収容所)です。
日本の窒素肥料工場(日本窒素の朝鮮窒素肥料株式会社興南工場)
でしたが、解放後に刑務所となったのでした。


興南の刑務所に移ってみると、食事が大変で、
死んでいく人たちがたくさんいました。

重労働の仕事でしたので、なおさらのことでした。
三か月足らずで健康を害して、多くの人が死んでしまうのです。

先生はその刑務所で働いている人たちを一瞥して、
あの人は三か月で駄目だというように感じました。
そして三か月たつとその人は死んでしまうのです。

共産主義国家というのは、その思想に反対する人でも、
そのまま殺すことはできないものですから、
重労働をさせて、ほかの人から殺したと言われるような
条件に掛からないようにしたというのです。


先生は出された御飯を見て、
「この食事では五年間、生き延びることはできない」
と感じました。

そこでどうしたら五年間、この食事で
生き残れるかということを考えられました。

神が六〇〇〇年の復帰の摂理をなさりながら、
先生一人を尋ね求めて来られたということを考えたとき、
先生お一人が問題ではなく、先生御自身が倒れたりすれば、
今まで六〇〇〇年の復帰摂理を求めてきた神様は
どうなるのだろうか、ということを常に考えておられました。


先生の使命がどんなにつらく難しいものであるか
ということに対して、先生の次のようなお話を聞くことで
感じ取れると思います。

先生は、御自身の使命が本当に難しいので、
これを他の人に譲ることはできないだろうかと
考えられたことがありました。

御自身を中心としてそう考えて、いざこれを人に譲れば、
先生御自身は非常に楽になります。

しかし、“私が苦労するはずのつらいことを
彼が担わなければならないだろう”と
こういうふうに思い至った時に、
“彼がその道を行くよりは、私が十字架を負って
いかなければならない”と考え直されたそうです。

 
人を主管する責任者になりたい、あるいはリーダーになりたい
という人は、世の中にたくさんいます。

しかし、リーダーの責任を果たすことが
どれほど難しいかということが分かれば、
その責任をほかの人に譲りたい
という思いに必ず至るだろうと思います。

リーダーとは、命令し侍られる者であると考えるのですが、
リーダーがそんなにもつらいものとは全然思いつきません。

ですから、先生が考えたような心をもたなければ、
そのリーダーは既にリーダーとしての資格がない
と思って間違いないと思います。

「私はリーダーになってうれしい」という人は、
もう初めの動機がだめなのです。


先生は御自身を問題としたのではなく、
御自身を通じて成そうとする神をもっと心配したのです。

それゆえに、先生は生きて神の願いを
成就していかなければいけないという
強い決意に燃えたのです。


そこで、先生はまず精神的にこの食料で
勝利していかなければならないと考えたのです。

ですから、「これではおなかがすいて駄目だ」というふうに
心が弱くなれば、五年の刑期を終える前に死んでいく
という惨めなことが起こるだろうと考えざるを得なかったのでした。

三か月間*は少ない食事を半分にして、半分をほかの人に与えました。
そしてその半分で、“私はこれから五年間を
生き延びなければいけない”という決意をされたのです。


都会の人よりも、農村の人の方が
食事の量がとても多いのです。

だからそういう農村で働いていた人々が刑務所に入ってきて、
そのような食事をしたのではとても耐えきれません。

どのくらい腹が減るかというと、その食事は
豆が少し混ざったにぎりめしなのですが、
それを与えられる時、ちょっとした拍子に豆が一粒落ちます。

するとその豆一粒が落ちたために、
その日一日中気分が良くない、というのです。


あまりにも無理をしていると、御飯を食べながら
死んでいく人があります。

そうすると一緒に食事をしていた人にとって、
今死んだ人を哀れんだり同情の心をもつよりも、
その人の御飯が問題なのです。

だからその人が倒れると、いち早く誰かが
その人の御飯を持っていくという、
本当に耐え難い状態であったということです。


また御飯の中に石ころがあっても、
それまでも食べてしまうというのです。

あるいは、一さじで食べてしまうと早くなくなって、
心理的にも少ししか食べなかったという感じになります。
それで、少しずつ食べて何とか長い時間をかけることで、
たくさん食べたような心をもとうとしました。

そういう心情を理解できますか。

 
先生は三か月後には、御飯を分けるのをやめて、
全部召し上がりました。
その時にどういう心をもってお上がりになったのでしょうか。

半分は先生に与えられたもの、御自身のものと考えました。
つまり、その最初の半分は、今この牢屋で
囚人に与えられるものとして先生の分を受け取ったのです。

あとの半分は、神が祝福して先生に与えたものだと考えていました。

ですから先生は、人の二倍、二人分を
食べることができるという心をもたれたのです。
だからこそ満足することができたというのです。

 
私たちは、三六〇軒エリアの家庭教会の活動をしています。

ヨーロッパから米国に来ているメンバーたちは、
一人が一人のメンバーを献身させて、
ヨーロッパに帰るようにしましょう。

皆さんはこれから難しい使命が与えられた時には、
常に今お話しした食事の時の心で行えば、
必ず勝利できると思うのです。

先生の第三次七年路程はハー年までですが、
私たちは第二次二十一年路程をまた考えなければなりません。

「八一年で全部終わりだ」と考えないで、
「これから第二次二十一年を続けてまたやるんだ」
という意気込みで行かなければならないということです。

その次は第三次、第四次と、そのようにして
地上天国が成就されるまで行かなければなりません。

もし、そういう心をもたないとするならば、
そこで終わってしまうのです。

I 平壌開拓から興南解放
第三章 興南監獄での伝道
「興南監獄での食事」

信仰生活シリーズ 6
「伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題


興南監獄でご飯を半分あげられたという証し、
食口であるならば、知らない人はいないでしょう。

ただ、元弼先生は「3か月は半分」とありますが、
様々な記述を見ると、「3週間」の間違えではないか、と思います。

ただでさえ極限の生活で、
さらにご飯を半分与える生活をされたお父様。

生命よりも貴いご飯をもらった囚人たちは、
どれだけ感謝の思いをもったことでしょうか。

その感謝の思いを「生霊要素」として受け取られ、
生き延びていかれた真のお父様でした。


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posted by ten1ko2 at 08:10 | Comment(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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