蝶野知徳(ちょうの とものり)本部家庭教育部長の
「精誠篇(せいせいへん)」
蝶野部長ご自身が、
毎日どこかに出向くたびに実行していること、
今回は、そんな証しも紹介されています。
☆
「人の振り見て我が振り直せ」と、ことわざにありますが、
あんな人になっちゃいけないというのが、
日本人は多いですね。
違います、それは私なんです、皆さん。
あれは私です。
だから許してくださいと
(天に許しを請うのです)。
私もこういうことをやり始めてですね、
自分がいかに罪深いか、ものすごくわかります。
こうやって、私がこの地に来たのも、
この地に罪があるからですよね(笑)。
そうですよ。
しかし、皆さんより私が罪が重いので、
これ(講義)をやってるんだと思います。
そう思っているのです。
だから、新しい教会に来る前、今日もやりましたが、
必ず教会の入り口に入るときに、
私は「許してください」と言って入っています。
私の先祖はこの地で何をやったのか、
許してくださいと言って入ってますよ。
☆
罪だけの話で、ちょっと重たくなるかもしれませんが、
そうでなくて、実を実らせて、
功績を立てるという両面があるのです。
この両面を同時にできる時代が来ましたが、
昔は穴埋めだけの時代があった、これを先天時代といいます。
今も蕩減(清算すべき私や先祖などの罪)はあるけれども、
自分が成長するたびごとに穴埋めも終わっていくという時代。
家を建てるのと、穴埋めが同時のような時代だといいます。
☆
お父様のみ言で1990年代にも
「無蕩減時代が始まった」というみ言があります。
「無蕩減時代が始まった」
といっても、蕩減はどう見てもあります。
自分の心の中にもあるし、血統にもあるし、
家の中でいろいろ起こりますし。
無蕩減時代が始まった、では、
それより前が何だったかというと、
いくら原理的に頑張っても
穴埋めしかできなかった時代が終わったということです。
もし私たちが原理的に立つならば、
私たちを遮るものが退いていく時代が来たという意味なんです。
無蕩減時代というのは、蕩減がなくなったわけじゃないんです。
原理的に生きるならば、私たちの前に立ちはだかる者が
退いていかざるを得ない時代が来たということですよ。
先輩家庭ほど苦労してます、本当に。
どんなに原理的に頑張っても穴埋めしかできないのですから。
我々は、そういう諸先輩の苦労に感謝して、
今の時代をいかないといけないなと思います。
だから、原理的にやれば、私たちの蕩減も
自動的に同時的に整理されていくというように
理解できると思うんですね。
☆
「感受」よりもいいんですね
これ(私の罪なので許してください)。
原理講論には、悪霊の再臨復活のところで、
甘受したら自分に悪事を働いた背後の悪霊が
善霊になっていくとあります。
感受というのは、甘んじて受ける。
つまり、「うーん、まあ、まあ蕩減でしょ」
っていうのが、甘受でしょう。
もっとレベルが高いのです。
人が暴力を振るったのを見て、
「赦してください」。
自分の罪としてもらうため。
これは、まるで個性完成者です。
しかし、これが復帰原理がわかってると、
案外簡単にできるということです。
原理がわからなければ、死んでも難しい。
☆
みなさんこれ生涯でこれをやった人が、
歴史に何人いると思います?
人が自分に危害を加えるのに、自分が謝る。
東北で津波が起こったのに、自分が謝る。
「いや、そんなことでそんなに内的蕩減できるんですか」
というかもしれませんが、
これをやった人が歴史上いないと思うのです。
イエス様がそれをされましたよね、最後。
「この者を赦してください」
確実に相手が悪いのに、自分が謝罪しています。
これは、個性完成の基準です。
☆
しかし、私たちはそれを素(す)の状態でできません。
だからお父様は、み言を与えてくださいました。
お父様は「実体み言」、
実体があってみ言が出てくるのですが、
私たちは実体がない、作られていないので、
み言を聞きながら実体をつくっていくんですね。
私たちは「み言実体」です。
ですからこの復帰原理を理解していくと、
蕩減できるようになるだけではなく、
自分の人格、愛が成長していくのです。
☆
【神様は言葉ではなく、
実感を通し、罪を教えて下さる】
『ああもう、あの人あんなことやってる、
あっ、これは自分の中にあるから見てるんだ』
というふうにですね。
だから、皆さんが、心が痛ければ痛いほど、
それが神様のメッセージなのです。
心が痛くない人は、そのとき
それを蕩減する立場じゃないからです。
これ、今、ちょっと大事なことを言いました。
その時感じているものをやればいいのです。
通りすがり、なぜその街の曲がり角の路地で
それを見たのかということも、全部意味があるんですが、
それは調べなくていいと。
その時感じたものを、謝罪するということですね。
蝶野知徳・精誠篇2
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
父母による子女の家庭教育 精誠篇より
「内的蕩減と生活信仰」
摂理される私、実体基台のために
☆
2018年に蝶野部長が広島の家庭教育部長だった頃
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
全国の教区から要請があり出張して語られた講義より
(文責:ten1ko2)
蝶野部長が、教会に入る前に祈るということですが、
家に帰られるときにも
ドアの前で祈ってから入られるとのこと。
イエス様が十字架につかれるとき、
「彼らを赦してください」と祈られました。
口先だけでもすごいことなのに、
真心からそう思われたのでした。
まさに、恩讐(敵)を愛する、
真の愛の持ち主以外には、できることではありません。
今の過熱報道、宗教はく奪に向かうかのような勢い、
この件に関して、食口であれば、
誰しも、心痛い思いになりますね。。。
確かに自分の力でできる私たちではありません。
み言と祈りが必要ですね。
そして、実践する、それが精誠でしょう。
清廉潔白なイエス様が、
よくわからずにヒートアップして
十字架につけろといった人たちに対して、
「赦してください」と祈っていかれたように、
私たちにもできるでしょうか。
「赦してください、これは私の罪です」と。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。
さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)
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なお謝罪する際に、政治家と世間に対しての謝罪はあったが、被害者家庭や被害二世への謝罪がないとの声を聞きました。
私が思うに、祝福家庭は本来は最も幸福であるばすなのに、祝福二世は宝であり希望なのに、それと真逆になってしまった事を全ての食口と御父母様は誰よりも心を痛めて謝罪したい気持ちで一杯なのに身内なので公では避けたと思いました。
なのでこれを見ているかは分かりませんが、またこれが承認されるかは分かりませんが、代わりに謝罪させて下さい。
献金や教会活動により、家庭がうまく行かず、それが恨みになってしまった事、それにより二世が誰にも相談出来ず、悩みを抱えながら苦悩の生活をせざるを得なかった事、殺害を抱く程の恨みを持たせてしまった事、二世の苦悩はよく分かっていて、そういう思いをさせてはいけないと思いつつ、私の力不足、私の責任分担を果たせなかった為に救いの道筋を作ってあげれなかった事をまた安倍元首相の暗殺の遠因の一因となってしまった事を
心よりお詫びします。誠に申し訳ありませんでした。
許して下さいとは言えません。甘んじて全ての蕩減を受けます。
最後に私も二世として周りに相談出来る人もおらず、両親の喧嘩に心を痛め、家には常にお金もなく、両親も夜遅く迄おらず、世間からカルトの悪評を感じながら、世間との価値観の違いに困惑しながら、恋愛感情を抑え込みながら、怒りの感情も押し殺しつつ、大学進学も諦め、生きてる意味も見失いつつ、号泣しながら統一教会の家庭に生まれてこなければもっと幸せだったんじゃないかと思った事さえありました。
しかし最後に辿り着いた場所は神様の心情、御父母様の心情、両親の心情でした。
被害二世には心より同情すると共に、立派に育たれた二世達に何よりの希望と喜びを感じております。