2022年11月05日

心が伴わなくてもよい?! 神様に聞かれやすい原理型の祈り 《前川先生》




211231-2021.1125.jpg


777双の前川浩子先生の誌上説教
「感謝と笑いの生活」より、
『原理的に祈れば、神が聞いてくださる』です。


原理的に祈れば、神が聞いてくださる

早朝と夜には、聖地(当時、東京都渋谷区の南平台教会の庭)で、
教えられたとおりに祈りました。

「神様、アダムとエバの罪をお赦しください。
6000年前にアダムとエバが神様の前で不信仰を犯し、
天使長に誘惑されて、身勝手に堕落しました。
その罪ゆえに神様が悲しまれ、人類も不幸になりました。
どうか、このアダムとエバをお赦しください」

次に教会の中心者をはじめ兄弟姉妹のため、
さまざまな公的なことを祈りました。

しかし、私の心の中は自分の悩みでいっぱいでしたから
「アダムとエバの罪を赦してほしい」という思いも
「人のために」という思いも全くなかったので、
口先で祈るだけでした。

ですから、「神様の前に、こんな
心にもないことを祈っていいのだろうか?」
とふと思いました。


そんな私に、「いいんだよ。
心になくても、形だけでも原理型を取って
お祈りをしなさい」と天から声が聞こえてきました。

私は「原理型は真理にかなうやり方だから、
形だけでも原理型を取ることが第一なのか」
と得心したのです。

いよいよ自分のことを祈る時間が来ると、
わくわくしました。

「神様、私はこうなのです、ああなのです…」
と、あらゆることを祈りました。

祈りを終えたとき、
とても心が軽くなり、春が来たようでした。

「これで大丈夫! 
全て神様が聞いてくださる。
問題は必ず解決する!」
 祈祷を通して、このような体験をしたのは初めてでした。

 
私はまた、原理用語で分からない言葉は、
全て神様に尋ねました。

「神様、蕩減ということが分かりません。
蕩減とは何か、教えてください」

「責任者が原理的にしなさいと言うのですが、
原理的とは何ですか?」という具合です。

尋ねると、神様は必ず、兄弟との会話や礼拝の説教、
訓読といったさまざまなことを通して
答えを与えてくださり、問題が解決していきました。

私はいつも神様が共にいてくださる
という実感をもって生活するようになりました。

前川浩子(777双)
『祝福家庭』78号(2015年 秋季号)
誌上説教
感謝と笑いの生活
(blessed lifeより)


公的な祈りはやはり重要です。
心情的でなく、形式的だとしても、
それが原理的である、というのです。

大先輩でも昔はそうだったんだ。。。
そう思うと何か、安心するような気もします。

私の祈りを聞いてくださり、
必ず、その答えを与えてくださる、
神様がいらっしゃる、ということ。
それがどれだけ貴いことであるかを
とても感じさせていただきました。


にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村
良い記事だと思った方は、
応援のクリックをお願いします!

(なお、記事冒頭の哲学・思想ブログのバナーも
ブログ村のバナーとなっています
どちらからでも応援して頂けます)



※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
教会本部の意向とは直接関係がありません。
過去においても、今後においても
全ての責任は私自身に帰属するものであります。

さらに、当ブログの記事に対して
曲解や悪用ととれる引用、
無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
その限りではありません)


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック