2023年01月04日

平壌から徒歩で避難、2ヵ月で釜山到着 統一教会の礎は瓦礫の中から始まった 《金元弼先生》




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厳徳紋先生☆


金元弼先生のみ言。
今日は、「*厳徳紋(オム ドンムン)先生の入教と
釜山での開拓伝道」です。

釜山に到着したのが、1951年1月27日、
厳徳紋先生と再会したのが、1月28日のことでした。

6.25動乱(朝鮮戦争)で、北から命懸けで
避難した文先生たちでしたが──
70年以上前の1月のお話です。


ニヵ月ほど過ぎたころ、朴さん(朴正華氏)の足が
ほとんど治ってきたので別れて、
(文鮮明)先生と私だけが釜山(プサン)に向かうことになりました。
途中、蔚山(ウㇽサン)で初めて汽車に乗ることができました。

釜山に着いた最初の夜、先生は
昔、ソウルで日曜学校の先生をしておられた時の
弟子の家で休まれました。

私は他人の家なので、共に世話になることができず、
ある食堂に就職して、そこに寝泊まりするようになりました。


先生は、日本で一緒に勉強していた
厳徳紋(オム ドンムン:36家庭)さんに会われました。
そして厳さんの家に落ち着かれることになりました。

厳さんは、先生と学校時代
(早稲田大学附属早稲田高等工学校)の同窓生であり、
互いに友達のような間柄で、先生は厳さんに
これからの理想世界に対するいろいろな話をされました。


すると彼の夢にイエス様の妹が現れ、

「私はイエス様のことで私の母に恨みがあります。
 その恨みを解くには、大きな門があって、その中に小さな門があり、
 またその中にさらに小さな門がありますが、
 それを開けなければなりません。
 その鍵を持っている人は文先生だけです」

と言うのです。


その人は仏教の人ですから、キリスト教のことも
聖書の内容も全然知らないのです。

それで朝になって目を覚して、先生にお話しされるのですが、
その時はひざまずいて話しました。

昨日の夕までは、「君」「おまえ」と言ったのが、
その朝はひざまずいて、「先生」と言うのです。
そして先生に鍵のことを
「それは何のことですか」と聞くのです。

そこで先生は、ずっと歴史を
お話ししてくださったというのです。

そして、厳さんはそれからずっと熱心に
先生と共に歩んでいらっしゃいます。


また、先生は金さんという弟子の家に
二週間ぐらいとどまられたこともありました。

金さんは北韓の興南の獄中での最初の弟子でしたが、
その後結婚して小さな家に住んでいました。

先生が厳さんと働いておられた時、
部屋がありませんでした。
それで結婚して何日もたたない金さんの、
四畳の小さな部屋に行って一緒に暮らしたのです。

そこで先生は原理を書かれました。
『原理原本』です。

先生は厳さんと一緒に本の表紙を作る仕事をしながら、
原理を書き始められたのです。


ある時、先生は、

「ここではどうしても原理を書くことが
できないから、お前が下宿している所に
私は行かなければならない」とおっしゃいました。

それで先生は私が下宿していた所に
一緒に住まわれるようになりました。

その下宿というのは、三畳の部屋なのです。
だからもう先生の頭と足が壁にぶつかるのです。

そういう狭い所にいらっしゃりながら、
先生は原理を書かれ、
また開拓伝道をされたのです。

平壌開拓から興南解放
第六章 興南解放と釜山伝道
「厳徳紋先生の入教と釜山での開拓伝道」

信仰生活シリーズ 6
伝統の源流 主と歩んだ教会創立以前の道」 
金元弼(1998年7月1日発行)
*『信仰と生活第二集伝統の生活化』を改題

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2ヵ月かけてようやく蔚山(ウㇽサン)から
釜山に入られた真のお父様(文鮮明先生)と
金元弼先生でした。

長い道のりになったのは、例えばソウルも
そうですし、韓国の至る所で
戦火が上がって多くの被害が出ている中で、
釜山は、被害がない都市だったので、
多くの避難民同様、そこまで南下することになったのでしょう。

(ちなみに当時7歳の真のお母様は、
その頃、大邱(テグ)に避難されました。)


さて、真のお父様と早稲田の同窓生だった厳徳紋先生。
建築家として大きな業績をもたれつつも
共に歩み続けられ、
真のお父様の数ヵ月前に聖和されました。

釜山での奇跡的な再会に関しては、
自叙伝「平和を愛する世界人」にも掲載されています。

イエス様の妹が夢に現れたという証しは、
厳先生が見られたのですね。
確かにこの内容は、真のお父様でなければ、
解くことができない話だと思います。


また、原理原本を書かれた場所というのも
金元弼先生のそばで書かれたということでした。

釜山といえばポムネッコルであり、
そこで原理原本を書かれたと聞いていましたが、
同じ年1951年の8月に建てられたので、
それより以前に書き始められていたのですね。

元弼先生の下宿は、たった、三畳の場所でしたが、
スペースの大きさが問題なのでなく、
心情の基台が問題である、
ということなのだと思います。





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*厳徳紋(オム ドンムン)先生
 2012年天暦5月12日(陽暦7月1日)聖和。享年93。
 真のお父様の日本留学時からの友人であり、後にお父様を人生の師として仰いだ。
 世宗(セジョン)文化会館やロッテホテルなどを設計した韓国有数の建築家。
 真の父母様は嚴徳紋先生の聖和の報告を聞かれると、「天心(チョンシム)親舊(チング)」の揮毫と花を贈られ、霊界入城の道を祝福された。

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posted by ten1ko2 at 07:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 金元弼先生 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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