野村健二先生の「神の沈黙と救い」
今回は、『イエスの十字架に対する神の沈黙』です。
☆
イエスの十字架に対する神の沈黙
日本人にあまりなじみはないが、
キリスト教ほど不思議な宗教は類例がない。
外面的に見れば、イエス・キリスト
その人をはじめとして、初期に懸命に活動した
使徒その他の伝道指導者はほとんど惨めな最期を遂げている。
彼らは十字架で亡くなったイエスが
間もなく再臨すると信じ、その希望に燃えて
熱心に伝道したが、再臨もまたなかった。
外面的にだけ見ると、日本の切支丹弾圧の時と同様、
神はずっと沈黙し続け、伝道者たちの労に
報いようともしなかったかのように見える。
実際その後も、新しい国々にキリスト教を
伝えようとすると、往々迫害が起こり、
その際決まったようにいつも、神が沈黙し、
そのため屈辱的とも見える殉教が必要となった。
☆
その原点はまず十字架上で始まる。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」
――これは、キリストが十字架上で
大声で叫ばれたとされる言葉で、
「わが神、わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか」という意味である(マルコ一五・34)。
この言葉は「マルコ」と呼ばれる最も早い時期に
書かれたと思われる福音書に載っているものであること、
イエスが言いそうもないことを言ったとされていることなどから、
イエスが実際にそう叫ばれたという性格が非常に高いもの、
と聖書学者が評価しているものである。
☆
『沈黙』にもこう述べられている。
モキチやイチゾウが杭にしばられて、沈んでいった雨の海。
小舟を追うガルペの黒い頭がやがて力尽きて
小さな木片のように漂っていた海。
その小舟から垂直に次々と簀巻(すまき)の体が
落下していった海。
海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、
その時も神は海の上でただ頑(かたくな)に黙りつづけていた。
「エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ」
……突然、この声が鉛色の海に記憶と一緒に
司祭の胸を突きあげてきた。
エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ。
金曜日の六時、この声は遍く闇になった空に
むかって十字架の上から響いたが、
司祭はそれを長い間、あの人の祈りの言葉と考え、
決して神の沈黙への恐怖から出たものだとは思ってはいなかった。
☆
実際、イエスまでが本当に、十字架上で神に向かって、
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
と叫ばれたのだとしたら、そこには一体
いかなる天の事情があったのか。
――この点に、今まで述べた無神論、
理神論の理解とは全く違った解釈の余地が
残されているのではあるまいか?
その点を、後で聖書を手がかりにして解明してみることにしよう。
☆
なお、『沈黙』に書かれている
「あの人の祈りの言葉」というのは、
詩篇二二篇の「わが神、わが神、
なにゆえわたしを捨てられるのですか」
に始まる77行に及ぶ長い祈りのことである。
イエスはこの祈りをされたのだと
ある学者たちは見るのであるが、
十字架上の激痛の中で果たして
そのような悠長なことをされたのであろうか?
☆
またイエスはこの言葉を「大声で」
「叫ばれた」とあり、詩篇のような
「捨てられるのですか」という訴えるような口調ではなく、
「お見捨てになったのですか」と過去形で
既成事実として、全く予期しないことが
起こったというような激しい調子でいわれているのである。
それは、いつも沈黙しておられる神が、
この時にもその沈黙を守っておられる
(ロドリゴが体験した神はこのようなものであった)
というのでさえなく、いつもは沈黙して
おられない神(イエスと霊的に一体であり、
一問一答しておられた神)が、
一番肝心な十字架の苦しみの絶頂で突如沈黙された。
これは先入観を入れずに見れば、
イエスとの霊的なきずなを切って、
捨ててしまわれたもののようにさえ見られるのである。
野村 健二・著
(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)
第二章 神の沈黙を考える四つの立場
三 情神論
「神の沈黙と救い〜なぜ人間の苦悩を放置するのか」
(一部、編集部が加筆・修正)
blessed life
(光言社・刊『神の沈黙と救い』より)
第二章 神の沈黙を考える四つの立場
三 情神論
「神の沈黙と救い〜なぜ人間の苦悩を放置するのか」
(一部、編集部が加筆・修正)
blessed life
☆
神様の『沈黙』に対して、
イエス様が語られた
「わが神、わが神・・・」という言葉。
これは、敢えて原語で聖書に残っているということは、
それだけ、重要なメッセージであり、
イエス様の悲痛な思いを弟子たちが残したかった、
ということではないかと思います。
そして、これは、神様を不信した思いでなく、
人類がこれから苦難の道に行くことを
嘆かれた言葉である、というのです。
どこまでも、神様を愛し、
人類の救いを求めた、
イエス様の思いから出た言葉であったのです。
※ このブログは、
あくまでも個人の意志に基づいて、書いているものであり、
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全ての責任は私自身に帰属するものであります。
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無断転載はお断りいたします。
(善なる目的で使用することに関しては
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